<BODY><P>戦後はや半世紀余り、あの呪わしい戦争を体験した人々もしだいに数少なくなってきました。戦争体験も風化し、多くの人たちにとっては歴史の一コマになりつつあります。 そこでインターネットに数多く蓄積された、戦争中の体験記や記録を、21世紀へ語り伝える一助として、リンク集にまとめてみました。</P></BODY>
被爆者284人の証言を集めたCD作品。全国の被爆者を訪ね歩いて、直接「被爆者の声」を収録。聞き取った証言などを基に昭和20年夏、広島、長崎の原爆投下前後の状況を再現。
みなさんは硫黄島、正確には東京都小笠原村硫黄島についてご存じでしょうか。第二次世界大戦最大の激戦地の一つといわれていますが、戦後は米軍、後に自衛隊の基地として使われているため、一般の人はなかなか訪問できません。しかしそれだけに激戦の跡、さらには亜熱帯性の豊かな自然が残されているのも事実です。 このページでは普通の人がなかなか行くことのできない硫黄島について、私の訪問記を 中心に紹介していきたいと思います。
(第2次世界大戦・墜落地点:豊田市坂上町) B-29: Heavy Bombers Boeing B-29 Superfortress 調査、編集:愛知県豊田市 JA2TKO・Kunio Okada 内容: このHPは、半世紀前のB-29の追憶の真相を解き明かすためのSiteです。 当時、私はパラシュートで脱出し日本軍に捕獲された米兵捕虜の郷中引き回し事件を凝視しました。 その彼が無事に本国へ生還したであろうかという私の想いが出発点です。 私は、B-29の墜落現地を訪問し、その情報をHPで公開しました。 その情報が、日米間を巡り、B-29捕虜生存者の証言と当時のGHQ・復員省調書にもとづく、 57年間(2002.9第4版)の時空を超えた迫真のドキュメントをまとめることができました。 2010年は、 終戦65周年とB-29Web Site開設10周年を記念して、その後の情報を追加(第8章)編
折り鶴を象った金色の錘 原爆の子の像(げんばくのこのぞう)は、広島県広島市の広島平和記念公園内にある、佐々木禎子(像のモデル、原爆による白血病で死去)の幟町中学校の同級生らによる募金運動により作られた像。制作者は菊池一雄。1958年5月5日完成。 1955年11月8日に、新聞で禎子の死を知った男の子から「禎子さんを始め、原爆で死んだ子の霊を慰める石碑を創ろう」と、禎子の同級生に提案があり、その設置に関する活動が始まった。11月12日に全日本中学校長会場で、『禎子の同級生8人によるビラ配り』が行われ、全国の中学校からも寄付金が寄せられた。12月に入ると広島市内の小・中・高校へも活動の参加を呼びかけ、『広島平和をきづく児童・生徒の会』が組織された。翌年(1956年)には、街中での募金活動が繰り返し行われ、年末までになんと540万円もの寄付金を集めた。後に募金活動の波紋が広がり、全国から3000
焼け跡にたたずむ母子、幼い弟をおぶるおかっぱ頭の少女。敗戦直後の1945年秋、東京で撮影された写真43枚が62年ぶりに米国から日本に里帰りした。米シカゴ生まれで太平洋戦争中、米空軍写真偵察隊所属だったクリフォード・マッカーシーさん(03年7月、82歳で病死)が写した。戦後、米オハイオ大で32年間、美術教授を勤めたことから同大と学術交流協定を結ぶ中部大学(愛知県春日井市)に贈られた。【高尾具成】 マッカーシーさんは従軍した南太平洋地域のビアク島からの帰途、東京に立ち寄り、帰国船を待つまで約6週間滞在した。43枚のモノクロ写真はその際に撮影された。 単語帳を広げ子供たちに尋ねる米兵、連合国軍総司令部マッカーサー最高司令官が使う高級車の横を牛を引いていく男、混雑する新宿駅……。 軍に借りたスピード・グラフィック・カメラで、米軍施設のあった調布の街角や田畑、東京駅周辺、明治神宮など焼け跡とな
この表は、『東京都戦災誌』(東京都)の第4章第1節「戦災日誌」を元にNEONCAFEが作成しました。この節の冒頭に以下のようにあります。 「戦災の状況の資料は種々の事情のためにその正確なものを入手するのが困難であったが、幸い東京都建設局に保存された『帝都防空本部情報』1綴と昭和24年警視庁編纂の『空襲災害状況一覧』1綴と消防庁保存の『空襲災害状況』1綴同『空襲災害概要』1冊とを借覧利用することができたので、これによって戦災日誌を作成した。然し激しい戦災相次ぐ時の状況の調査であるから、これらの諸記録の数字も一致しない点が少なくない。これは事情止むをえないことであって、いずれを取りいずれを捨てるということも出来ないから並記して参考に供することとした。」 こうした資料から単純な一覧表を作るのは困難な作業ですが、今回は以下の原則を立てこれに従いました。ですから、他の文献や資料で提示されている数
東京初空襲は、昭和17(1942)年4月18日ノースアメリカンB25六機による低空からの銃爆撃による突然の来襲であったが、この当時はまだ我が国周辺の制海空権は保持されている状態であった。しかし、昭和19(1944)年7月に、マリアナ郡島中のサイパン島が陥落したことで、日本は米軍爆撃機の行動範囲内に入ってしまった。 その後、昭和19(1944)年11月以降数十回におよぶ爆撃を終戦直前まで受けたが、このうち渋谷区が直接空襲を受けたのは、昭和19(1944)年11月27日に始まって昭和20(1945)年5月29日に到るまで前後12回に及んだ。 ページトップへ戻る 昭和12(1937)年7月の日華事変の勃発は日本全体を次第に戦雲に巻き込み、さらに太平洋戦争への突入は悲惨な結果を生ずるに到るが、この影響は本区の人口に明確に現れてくる。昭和10(1935)年度以降の国勢調査における人口推移をみてみると
我が国においては、先の大戦で多くの人々が空襲等の犠牲となりました。 戦後70年以上が経過した今日、先の大戦におけるこうした痛ましい戦災の記憶は、次第に風化しつつあると言われています。 空襲等の事実を知っていただくことが、戦災で犠牲となった多くの人々の追悼となるだけでなく、我が国の恒久的平和につながるものと考えます。 総務省においては、一般戦災死没者に対して追悼の意を表すため、関連した事業として、平成26年度まで収集した追悼式及び追悼施設に関する情報を本サイトに掲載しております。 なお当ホームページ中、「国内各都市の戦災の状況」及び「戦災に関する物品・写真」で使用している写真や文章については、当ホームページのみで使用することを前提に、各地の戦災都市から提供されたものです。印刷物等への二次使用の許諾は受けていないため、許諾や高解像度の画像の入手については、各地の戦災都市へ直接お問い合わせくださ
焦土と化した東京。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館。 空襲前(左)と空襲後(右)の航空写真。左の縦に流れる川が隅田川、右上の川が荒川 3月10日未明空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺 東京を空襲しているB-29爆撃機(1945年のものであるが詳細な日時は不明) 東京市(当時)の空襲被害状況をまとめた地図(戦災概況図)[1]。空襲日ごとの罹災地域が分かる。1945年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために第一復員省が作成した。 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にアメリカ合衆国により行われた、東京都区部に対するM69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、東
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