最近、形而上学づいている。形而上学の必要と書いたけれど、これは言葉足らずで、本意としては次のようになる。自らが暗黙裡のうちに立脚している形而上的・存在論的立場を「自覚」することの必要である。意識は脳が生み出しているという脳科学者も、数学者も、あるいはコンピュータ・プログラミングを生業とするSEも、ありとあらゆるすべての人が、実はある形而上学・存在論の上で思考している。こういう言い方はフロイトの「すべての背後には性的抑圧が~」みたいな胡散臭さがあるが、現にそう思うのだからしょうがない。 実は僕は存在論という言い方のほうが好きなので以後、こちらに基本的に統一する。しかし、形而上学という言い方もいかめしくて古風で、これはこれで好きなのだが。 普通、自分がそれに乗っかっている存在論は意識されない。とりわけ、自然科学者はそうした傾向が強いようだ。それには意味があって、自分が立脚している存在論を自覚し