タグ

ブックマーク / monochro.exblog.jp (5)

  • モノクロ珈琲 : 形而上学の必要

    最近、形而上学づいている。形而上学の必要と書いたけれど、これは言葉足らずで、意としては次のようになる。自らが暗黙裡のうちに立脚している形而上的・存在論的立場を「自覚」することの必要である。意識は脳が生み出しているという脳科学者も、数学者も、あるいはコンピュータ・プログラミングを生業とするSEも、ありとあらゆるすべての人が、実はある形而上学・存在論の上で思考している。こういう言い方はフロイトの「すべての背後には性的抑圧が~」みたいな胡散臭さがあるが、現にそう思うのだからしょうがない。 実は僕は存在論という言い方のほうが好きなので以後、こちらに基的に統一する。しかし、形而上学という言い方もいかめしくて古風で、これはこれで好きなのだが。 普通、自分がそれに乗っかっている存在論は意識されない。とりわけ、自然科学者はそうした傾向が強いようだ。それには意味があって、自分が立脚している存在論を自覚し

  • モノクロ珈琲 : 『言語哲学大全Ⅰ』に関するノート

    珈琲とモノクロ写真今回の那須滞在の主目的は、飯田隆『言語哲学大全』のシリーズを腰を据えて読むことである。読みながら思った疑問などをメモ風に。 第2章フレーゲ的意味論の基礎において、「意味の心象説」批判が取り扱われているが、僕にはしっくりこない。飯田はウィトゲンシュタインの批判が決定的だ、とするが僕にはあまりそうは思えないのだ。そのひとつの論拠は、解釈の解釈の解釈…という無限後退に陥るから、という以上の域を出ていない。また、赤い色を想像せよ、という命令においては単にその命令がナンセンスだという応答ではいけないのであろうか。意味の心象説に立つならば、赤という語によってある心的イメージが喚起される。赤い色を想像せよ、という命令は、既にそれは成されてしまっているがゆえに命令としては意味がない。僕は意味の心象説を信じるわけではないが、意味の心象説に対する批判がそれ程有効に機能しているともあまり思えな

  • モノクロ珈琲 : 『知覚の呪縛』に関するメモ

    珈琲とモノクロ写真渡辺哲夫の『知覚の呪縛』(西田書店)を読みながらのメモ。どういった書物かというと、Sという分裂病患者(今なら統合失調症患者というべきか)の病態の報告と、それに関する著者の考察である。 Sの症状は極めて興味深い。端的には、Sにとっては知覚され、現前するものは「ワラ」と呼ばれるニセモノであり、S自身は「ワラ地球」というおかしな場所に入れられたと感じている。そして「オトチ」と呼ばれる当の場所に帰りたいと切望している。哲学者バークリーの有名なテーゼ"esse ist percipi"(存在とは知覚されることである)のちょうど裏返しになっている。Sにとっては、知覚され、現前することこそが非存在の最たる特徴なのである。 著者は、読み手がいささかイライラするくらいに慎重にSの世界の在り方を分析していこうとする。まだ読んでいる途中なのだが、現在進行形の今のうちに、自分なりの感想や仮説を

  • モノクロ珈琲 : ゲティア問題のためのウォーミングアップ

    珈琲とモノクロ写真たまたまゲティアという人について知り、その人が面白い問題を提起しているらしい。ふーん、認識論かあ…。個人的な好みとしては存在論の方が何となくハードコアでカッチョイイ気がしているのですが、認識論もそれなりに面白そう。哲学というのは未解決パズルの集まりと、その暫定的な解答集みたいなイメージが今のところ僕にはあります。そこで、その暫定的な解答を見る前に自分なりのイニシャルな解答をあらかじめ記録しておくと、後で見返したときに赤面ものながら、それはそれで面白いので、つらつら書いてみる次第です。 認識論は、ネットで雑駁に見た感じだと、自分が単に思っている信念(ドクサ)と知識(エピステーメー)を如何にして峻別するか、という問題のようです。古典的な知識の定義は「正当化された真なる信念」というもの。つまり、その信念が単なる思い込みではなく、実際に真であること、そしてそれが真であることの正当

  • モノクロ珈琲

    珈琲とモノクロ写真

    モノクロ珈琲
  • 1