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ブックマーク / p-shirokuma.hatenadiary.com (13)

  • マイルドヤンキーに「貧困」「反知性主義」が短絡される現象について - シロクマの屑籠

    「マイルドヤンキー」という言葉があぶり出した日の階層:日経ビジネスオンライン 私もリンク先の視点に賛成だ。 若者文化の表象を理解する糸口として「ヤンキー」「マイルドヤンキー」といった言葉を用いるのは悪く無いと思うし、そこからマーケティング論を展開するのも面白い。だが、そういうストーリーから「マイルドヤンキー=貧困」となり、あまつさえ「マイルドヤンキー=みんな馬鹿」的な誤解を生みそうになっている現状は、ウヘェ、と思わずにいられない。 予め断っておくと、原田曜平さんの『ヤンキー経済』も、斉藤環さんの『世界が土曜の夜の夢なら』も、とても興味深く、面白いだ。前者はマーケティングの視点からヤンキー的地方民を書き綴っただし、後者はヤンキー先生こと義家弘介さんのヤンキースピリットに潜む反知性主義を指摘し、ヤンキー→ヤンキー的なものへの変遷を知るヒントを彩り豊かに紹介している。 だが、こうしたヤンキ

    マイルドヤンキーに「貧困」「反知性主義」が短絡される現象について - シロクマの屑籠
  • エアリプライの危険性と対策 - シロクマの屑籠

    昨日、id:a-parkさんと「ネットリテラシーの怖い話をするオフ会」を開催した。こういう記事を書いている御仁だけあって、ネットリテラシーに対する鋭い意識、ネットアカウントの脈拍を感知しプロファイルする能力の高さは凄かった。機会があったら、また連絡会などやりたいと思う。 さて、その席上で、twitterでよく見かけるエアリプライの話が盛り上がった。エアリプライとは、【@相手のアカウント名】の通常リプライではなく、誰に言及しているのかを指定していないけれども、特定の誰か、または複数名と双方向的なコミュニケーションを意図したリアクションを打ち込むことだ。空中リプライとも呼ばれる。 このエアリプライ、かなりの頻度で見かけるのに、その功罪、リスクとベネフィットについてネット上でまとまった文章を見たことがない。そこで、エアリプライの危険性と対策について書き綴ってみることにした。 1.エアリプライはハ

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  • 「ネットがつまらない」≒「自分がつまらない」 - シロクマの屑籠

    ネットもつまらなくなった 「ネットがつまらない」=「自分がつまらない」は言い過ぎとしても、「ネットがつまらない」=「自分のネットユースがつまらない」「自分の眺めているネットがつまらない」なので、ネットそのものが問題というより、その人自身の所業によるところ大な問題だと思う。 ネットがつまらないなら、どうして観測範囲を変えないのか テレビ番組がつまらなければ、チャンネルを回せばいい。それと同じように、ネットがつまらなければ観測範囲を変えればいい。マスメディアと違ってインターネットには無限に近い選択肢があり、多種多様なネットサービス上に、これまた多種多様な表現、プレイヤーがひしめき合っている。だから、「ネット、つまらないな」と思ったら、自分から面白いものを探しに行けば、たいていどこかに面白い表現、面白いプレイヤーが隠れている。 例えば、twitterを眺めていて物足りなければ、followしてい

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  • 「大の大人がゲームをする必然性」を自問自答するのも悪くない - シロクマの屑籠

    大の大人がゲームをする必要がどこにあるの はてな匿名ダイアリー リンク先の問いはシンプルだ。「大の大人がゲームをする必要があるの?」――もっと楽しい事があるんじゃないか、もっとためになる事があるんじゃないか、もっと奥の深い営みがあるんじゃないか――まったくその通り!時間も、金銭も、体力や精神力さえ効率性を求めてやまない現代人。その現代人が、コンピュータゲームに大量のリソースを配分するのは、非効率きわまりないようにみえるし、ある種、自己矛盾を孕んでいる。 だから、ゲームに多大なリソースを費やしてやまない現代人なら、どうして自分がゲームにリソースを費やすのか、一度や二度、真剣に考えてみたっていいのではないか――というより、ゲームに大量のリソースを“賭ける”人こそ、自分が何のためにゲームに金銭や時間を費やしているのか、少なからぬ代償とひきかえにゲームからどのようなベネフィットを得ているのか、自覚

    「大の大人がゲームをする必然性」を自問自答するのも悪くない - シロクマの屑籠
  • 孤独なニュータウンの近未来――もし、アメリカの後を追いかけているとしたら - シロクマの屑籠

    地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会 (朝日新書) 作者: 阿部真大出版社/メーカー: 朝日新聞出版発売日: 2013/06/13メディア: 新書この商品を含むブログ (19件) を見る 生活環境を語るアングルとして「都市」「地方」という二分法が有効だった時代が過去のものとなり、中核都市でも過疎地域でもない「郊外」が台頭してきて、数十年が経ちました。全国一律な国道沿いの風景――いわゆるファスト風土――の成立も相まって、郊外に造成されたニュータウンは、日人の新たな故郷、そして標準的な生活環境になりつつあります。 昭和時代のニュータウンは、地域のしがらみから開放された新環境で、そうした自由を多くの人が夢見ていました。もちろん「マイホームを持ちたい」という夢は、ダイワハウスや積水ハウスのような住宅業者、鉄道沿線の宅地開発に関わった業者によって“煽られた”夢ですが、そうした“

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  • しばらくネットを離れ、文章修行に明け暮れていて思ったこと - シロクマの屑籠

    ここ3ヶ月ほど、オフラインで文章作成する案件が立て込んで、インターネットが一日30分程度の毎日が続いた。くだらない揉め事、言及するほど損する議論、誰かを批判する時だけ七色の光を放つアカウント……そうした、非建設的なネット興行を全部脇に置いて、インプットとアウトプットに励む3ヶ月は、有意義ではあっても、脳内のドーパミン分泌量がちょっと足りない、そんな気がした。 6月を迎え、久しぶりにインターネット繋ぎっぱなし状態にしてみると、ディスプレイにはインターネットの懲りない面々の姿がうつり、脳細胞が歓声をあげた。これだ!id:p_shirokumaの育ったふるさとの風!そしてはてなブックマークの阿鼻叫喚!嫁さんが別アカウントでブックマークした記事を流し読み、twitterのリストで過去ログを三日分ほど遡る。今日もインターネットは平和だった。なるほど。「こうした牧歌的光景が繰り広げられているのも、アベ

    しばらくネットを離れ、文章修行に明け暮れていて思ったこと - シロクマの屑籠
  • 伸びたのは「余生」であって、「若さ」ではない - シロクマの屑籠

    最近は、ネットでも「四十歳になった」「健康が気になるようになった」的な文章を目にする。私自身がそういう話題を気にするようになっただけなのか、それとも、黎明期からネットをやっている連中がだいたいそれぐらいの年齢層なのか。 そういえば、ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法の著者・天真爛漫なキャラのphaさんまで、『病気と健康の話ばかりする中年にはなりたくなかった』という記事をアップロードしていた。そこに群がるはてなブックマークのコメントが、これまた歳を感じさせる。 平均余命まで健康を保ちたいなら、三十代〜四十代からの健康管理は必須だろうし、これぐらいの歳になると身体の衰えが気になってくる。集中力や記憶力にも陰りがみられ、徹夜なんてやろうものなら体調を戻すのに数日かかる。親が病院の世話になりはじめる。だから、三十代の途中から健康不安が首をもたげるのは自然なこと

    伸びたのは「余生」であって、「若さ」ではない - シロクマの屑籠
  • 自称クズ=理想と現実のギャップに苦しんでいる人 - シロクマの屑籠

    http://anond.hatelabo.jp/20130306163244 リンク先は、就職活動中の大学生が書いた長文だ。文中、「自分はクズ」「人間失格」といった文字がちりばめられ、「どうやったらスティーブジョブズになれるんだよ!」とも書かれている。リンク先の書き手が、精神的にどれぐらい余裕が無いのか・万が一にもメンタルヘルスに問題を呈しているのかは、文章だけでは判断できないので、触れないでおく。 それより、私や友人達の間で「クズ」という言葉が流行っていた年頃を懐かしく思い出してしまい、“自称クズ問題”について書きたくなってきたので、書き記しておくことにする。 「クズ君」の思い出 大学生だった頃の私は、自分のことをクズだと思っていた。学業は低空飛行で、世間から後ろ指を指されるような趣味に耽り、コミュニケーションにも自信が無い。さりとて“一般的な”クラスメートや親族の前で「自分はクズです

    自称クズ=理想と現実のギャップに苦しんでいる人 - シロクマの屑籠
  • 「自己愛が腹ペコの人は、判断力が低下する」問題 - シロクマの屑籠

    自己愛の充たされ具合と、判断力について。 人間って、腹が減ってもすぐには死にません。空腹は辛いものですが、健康な人が一抜いた程度なら大丈夫でしょう。しかし空腹がずっと続けば衰弱しますし、いつか餓死してしまいます。 人間の自己愛も、これに似ていると思います。人間の心は――少なくとも概ね健常な状態にある人間の心は――ちょっとやそっと自己愛が充たされなくなっても、すぐには潰れてしまわないものです。でも、ずっと自己愛が充たされない状態が続いていると、だんだん心が衰弱していって、メンタルヘルスを損ねやすくなってきます。尤も、自己愛が腹ペコ状態になっただけでメンタルヘルスを損ねるところまでいってしまう人は稀でしょう。身体的疲労やストレスが重なった時に、自己愛が腹ペコ状態なのかそうでないのかが問われ、その人の命運が左右されるんじゃないかと思います。 ここまでは拙著『ロスジェネ心理学』でも書いた話。

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  • 【コミュニケーション能力=他人の行動確率を変化させて自分にとって適応的な状況をもたらす能力】 - シロクマの屑籠

    「コミュニケーション能力」と十把一絡げに捉えることの弊害 - 脱社畜ブログ http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/01/07/134423 新年早々、「そもそもコミュニケーション能力ってなによ」とは威勢のいいタイトルですね。こういう問いかけは、2006〜2007年ぐらいにブログ界隈で散々見かけたものです。懐かしいと思いました。 「コミュニケーション能力」って言葉をいい加減に使っている企業とか人物とかって、当に多いですよね。「私はコミュニケーション能力の高い人間を欲している」と言っている人がいたとして、事業主のAさんは不特定多数との無難な業務応対を求めているかもしれないし、婚活中のBさんは継続的で親密な人間関係を構築する方面を期待しているかもしれない。Cさんに到っては、挨拶が出来て、上下関係を尊重して、命令に「はい」答えるような性

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  • 「思春期が終わったけれども壮年期が始まらない人達」 - シロクマの屑籠

    先日の記事の補足として。 今、思春期の後半と言われている20代後半〜35歳ぐらいの年齢には、思春期という言葉と表裏一体だったはずの、モラトリアム*1という言葉があまり似合わない、と思う。それぐらいの年齢になっても進路や生き筋を自由選択できる幸運とタフネスを持った人もいないことはないが、あくまで幸運だったりタフだったりする比較的少数の人達である。大半の人達においては、三十路を迎えた頃というのは、色々な事がかなりのところまで決まっている or 決まりつつある最終段階に相当する。決まりつつある、という意味ではぎりぎりモラトリアムとも言えなくもないが、夏休みに喩えるなら、八月三十日や八月三十一日を夏休みと呼ぶのと同じようなものではある。 実際には、三十路を迎えた大半の人は、自分の人生のかなりの部分を既に選んでしまっている。まだ会社は変えられるし、恋愛経験のある人なら結婚相手を選べる可能性もある。し

    「思春期が終わったけれども壮年期が始まらない人達」 - シロクマの屑籠
  • 「自己中心的な若者」より「自己中心的な老人」のほうがヤバい - シロクマの屑籠

    選挙の季節が近づいてきました。私達の意志を政策に反映させる機会なので、投票したいと思っています。 ところで、選挙のような社会的な意思決定は、自分自身の都合だけを考えるのでなく、一緒に暮らしている人々や社会を形成している様々な人々の立場・状況にも思いを馳せつつ、ベターと思われる選択をするのが良いと私は思っています。個々人の欲求や自由が尊重されるべきなのはもちろんですが、自分以外の他人の立場・状況も踏まえ、そのうえでYesやNoを言えるような大人が必要でしょう。 だから、年長者にありがちな「最近の若者は自己中心的」や「最近の若者は他者性が欠落している」といった“注文”も、あれはあれで、わからなくもありません。 自己中心的なのは「若者」よりも「年長者」では? しかし実際に街の風景を思い出すと、「最近の若者は自己中心的」……とは思えません。 街で見かけた、「うわっ!こいつ自己中心的だ!ひどい!」と

    「自己中心的な若者」より「自己中心的な老人」のほうがヤバい - シロクマの屑籠
  • 私が不登校から精神科医になるまで - シロクマの屑籠

    今でこそ私は、精神科医という、他人の社会適応やメンタルヘルスを気にする仕事に就いているが、かつては自分自身の社会適応やメンタルヘルスにこそ問題があり、学校生活から落伍していた。いや、当は今でも自分自身の社会適応に問題はあるだろうし、だからこそ人間の社会適応を学び、実践することに拘っているのだろう。 1.私はもともと古い地域社会の出身で、そのコミュニティのなかでは概ね上手くやっていた。私は我の強い、そのくせコミュニケーションの機敏に疎い子どもだったと思う。しかし地域の年長者達はそんな私の取り扱い方をよく心得ていて、私のほうも彼らを慕っていたので、コミュニケーションに困ったことはあまり無かったと思う。私は小学校に行くのを楽しみにしているような子どもだった。 しかし幸せは長く続かなかった。中学校に入り、地域社会の外側の生徒にまみえるようになると、私は年長者の保護を失った。“よく知らない同級生と

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