有楽町駅を中央口から出ての東京交通会館、有楽町イトシアが望める広場の辺りは現在では視界の開けた明るい場所となっているが、戦後しばらくは周辺地域の中で最も開発が遅れた、はっきり言えばゴチャゴチャとした暗い雰囲気の場所だったようだ。 その原因を作ったのは終戦後にやってきた進駐軍である。朝日新聞社(築地移転前は現在有楽町マリオンが在る場所にあった)が有楽町の歴史をまとめた本にはこう書かれている。 占領軍は第一生命館をGHQ総司令部にしたあと、有楽町周辺の焼け残ったビルを片っ端から接収した。朝日生命館は憲兵隊本部に。三信ビルには通信隊が入った。つまり、この街は米兵たちの巣となった。 オフ・リミット(日本人立ち入り禁止)のクラブ、キャバレーが軒を並べ、靴磨き少年と娼婦たちが米兵のあとを追いかけた。酔った黒人兵と白人兵の喧嘩もしょっ中起きた。娼婦やポン引きが、かれらの手で数寄屋橋から外濠に投げ込まれた