海野は2001年の取締役会にて、ヴァンフォーレ甲府の存続のための経営方針を訴えた 【写真:ヴァンフォーレ甲府】 企業はいわば「生き物」であり、その生き死には組織にかかわる人の力に懸かっている。もちろんJクラブにも同じことが言える。2000年末に瀕死の状態に陥っていたヴァンフォーレ甲府が再生できたのは、翌年2月、海野一幸が社長(現会長)に就いたからこそである。 しかし、当時、山日YBSグループの広告代理店であるアドブレーン社の常務だった海野は甲府社長就任を左遷人事ととらえ、海野を指名した山梨日日新聞社長の野口英一に「私をクビにしたいのなら、クビと言ってください」と迫った。 その夜はやけ酒をあおり、日川高校の同級生であり、山日グループの顧問弁護士だった古屋俊仁に電話で「どうしてオレが行かなきゃならないんだ」と愚痴を重ねた。与えられた役割はクラブの再建ではなく整理であり、自分は汚れ役を負わされた