ブックマーク / shibayan1954.com (232)

  • コレヒドール要塞攻略

    コレヒドール要塞 バターン半島の沖合にコレヒドール島があり、そこにはスペイン統治時代からマニラ湾を守るための要塞が築かれていたのだが、フィリピンがアメリカ領となったのちアメリカはその補強工事を行い、30センチカノン砲8門、30センチ榴弾砲12門等の重砲群と、巨大な地下室、発電所のほか電車まで備えた近代的要塞を構築していた。 『大東亜戦争写真史 第6回』富士書苑 昭和29年刊 p.37 上の画像はバターン半島南部とコレヒドール島の地図だが、コレヒドール島はおたまじゃくしのような形をしていて、島には巨大な要塞が築かれていた。 コレヒドール要塞の巨砲 『捕虜日記』より 昭和十七年(1942年)四月九日にバターン半島の米比軍が降伏したあと、コレヒドール島からバターン半島への砲撃は激しくなっていた。従軍していた火野葦平は次のように記している。 バターン半島の敵は壊滅してしまったが、コレヒドール島だけ

    コレヒドール要塞攻略
  • 「バターン死の行進」を考える

    フィリピンの地図から地名を見つけてルート検索してつないだ地図を作成してみたが、実際にどの地点からスタートし、どの道を歩いてどの地点に到着したかが判らないので165kmと随分長いルートになってしまった。 このルートで問題になるのは徒歩で移動した部分だが、Wikipediaで約42kmということになる。なぜ徒歩で歩かせたかという点だが、車両不足に加えて道路が破壊されているという問題があり、これは日軍の責任というよりも破壊した米比軍側の責任である。引率した日兵は重装備をして歩いていたのだからやはり捕虜も歩くしかないだろう。目的地はオオドネル基地で、そこには三万七千人以上の捕虜が収容できる施設があった。 フィリピン戦に関する書物の多くは、戦後GHQによって焚書処分されてしまったために、戦後の日人はこの史実に触れることが難しかったのだが、今は「国立国会図書館デジタルコレクション」の検索機能を用

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  • 日本軍のバターン半島攻略戦でフィリピンを脱出したマッカーサー司令官

    フリーメーソンの資格を与えられたマッカーサー 前回の記事で、ダグラス・マッカーサーが一九三五年にフィリピン軍の軍事顧問に就任したことを書いたが、『マッカーサー回想記』を読むとマニラ到着後母が亡くなり、その後フリーメーソンの資格が与えられたと書いている。 母の死後まもなく、私はフリーメーソンのマニラ地区会によってメーソンの資格を与えられた。この資格を受けるに当たって、私は次のように述べた。 「フリーメーソンの基礎は道義心であって、この道義心とは歴史上の出来事を振り返ったり、宇宙の偉大な驚異的現象を観察したりすることから人間の心に植え付けられる道義心ではなく、人間性そのものの発露としての道義心である。…中略… フリーメーソンは世界で最も古い団体であり、…そのおきては愛国心と兄弟愛を教え、高い慈愛の心を求め、善良で親切で恵み深いものはすべて奨励し、残酷で悪意に満ち、抑圧的なものはすべて排する。そ

    日本軍のバターン半島攻略戦でフィリピンを脱出したマッカーサー司令官
  • アメリカによるフィリピン統治とマッカーサー家

    米西戦争から米比戦争 1898年2月、キューバの港ハヴァナで何者かにメイン号が爆破されて多くの死者が出たことをきっかけに、「メイン号を忘れるな!」(リメンバー・ザ・メイン)の戦争国民標語はたちまち全米を風靡して交戦ムードが高まり、アメリカは4月に正式にスペインに対して宣戦を布告した。この戦争を「米西戦争」と呼ぶが、この戦いは8月に終わってスペインが敗北し、アメリカはカリブ海及び旧スペイン植民地に対する管理権を獲得した。 エミリオ・アギナルド ところが、それまでスペインの植民地であったフィリピンでは、1896年8月以来フィリピン人たちがスペインからの独立を求めて武器を執って戦っていた。1898年に米西戦争が始まったのちアメリカはフィリピンに派兵し、独立運動の指導者エミリオ・アギナルドに、戦争勝利の暁には独立させると約束して背後からスペイン軍を襲わせている。1899年1月にアギナルドは一応軍事

    アメリカによるフィリピン統治とマッカーサー家
  • 笠置寺の修行場を巡りながらその歴史を学ぶ

    笠置寺(かさぎでら)は京都府の南東部にある標高二百八十九メートルの笠置山の山上にある寺で、この寺の境内の修行場をめぐるのが面白いと聞いていたので、先日チャレンジして来た。結構楽しかったので、今回は笠置寺の歴史を交えながら修業場のレポートをすることとしたい。 最初に寺へのアクセスについて一言書いておきたいのだが、笠置寺のホームページには「車でお越しの場合、カーナビ設定は『かさぎゴルフ倶楽部』での設定が便利」と書いてある意味が分からず私の車のカーナビの指示通りに山上の駐車場を目指し、笠木山添線から登山口で折れて笠置山に登る道に入ってしまった。この道はかなり細く、カーブが多くて、対向車が来るとすれ違うのに苦労することになるのであまりお勧めできるルートではない。369号線経由にしろ163号線経由にしろ、登山口からの山道は避けて、『かさぎゴルフ倶楽部』を通って、山上駐車場を目指す方が運転が楽である。

    笠置寺の修行場を巡りながらその歴史を学ぶ
  • 月ケ瀬梅林から柳生の里と近隣の寺社を巡る旅

    月ケ瀬梅林 そろそろ梅の花が見ごろを迎えたので、二月二十八日に月ケ瀬梅林から柳生の里を散策し、その後柳生街道沿いの寺社を訪ねてきた。 月ケ瀬梅林入り口 月ケ瀬梅林は奈良県の北東の端にあり、京都府や三重県の県境に近い場所なのだが、平成十七年(2005年)の町村合併により奈良市に編入されている。奈良市内とはいっても、奈良市の中心部からはかなり遠くて公共交通機関で行くことは難しく、殆んどの観光客がマイカーか旅行会社の企画した観光ツァーでバスで訪れる場所である。 月ケ瀬梅林 梅の品種園 旧村役場であった月ケ瀬行政センターに車を駐めて、一目八景、帆浦梅林、梅の品種園を往復する一般的なコースを歩いてきたが、月ケ瀬梅林はほかにも天神梅林、鶯谷梅林、こけいし梅林、一目万など多くの梅林がある。芭蕉句碑が一目万にあるようだが、昭和32年に刊行された名勝月ケ瀬学術調査団 編『名勝月ケ瀬』によると、芭蕉の時代

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  • 『敵国アメリカの戦争宣伝』(GHQ焚書)を読む 3

    勝利の宣伝 前回に引き続きGHQ焚書である中野五郎の『敵国アメリカ戦争宣伝』の内容を紹介させていただく。 日軍の真珠湾攻撃直後にルーズヴェルト大統領がどのような発言をしていたかについて、書には以下のように記されている。 日米開戦直後、ルーズヴェルトはアメリカ国民に向かって、 『わがアメリカ的文明の救われることが確実となるには、なお二年乃至三年を要するであろう』 と楽観論を戒めておきながら彼は自ら、 『地球上より日を抹殺する。』 『日の武装解除と日国民の懲罰を行う。』 と世界に向かって宣言したのであった。…中略… アメリカの勝利の宣伝はアメリカ人の世界的優越感に根ざしているだけに、ルーズヴェルトの煽動宣言をまたずとも実に一億三千万の大衆の腸に滲み込んでいる。例えば、真珠湾の惨敗以来連戦連敗の暗澹たる日の続いた昭和十七年春、ギャラップ世論調査によれば『戦争はいつまで続くか?』との質

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  • 『敵国アメリカの戦争宣伝』(GHQ焚書)を読む 2

    前回に引き続き中野五郎の『敵国アメリカ戦争宣伝』の内容の一部を紹介させていただく。今回は二回目で、昭和16年(1941年)12月8日未明(アメリカ時間では12月7日午後)に行われた真珠湾攻撃に対して、アメリカではどのように報じられ、ルーズヴェルトはどのように動いたかかということについて、このにどのように解説されているかを中心にまとめてみることとしたい。 日米開戦の謀略宣伝 12月7日の午後中野五郎はワシントンの中央停車場に着いたばかりであったのだが、その日の出来事について以下のように述べている。 間近に近づいたクリスマスの七面鳥の夢を楽しんでいる如く、官庁ばかりの町の日曜の午後は眠ったように静まり返って、寒気はさすがに凛冽であったが、目にしみるような冬晴れの青空には白聖の議事堂の巨大なドームが美しく輝いて、いかにも平和な光景を呈していた。私はこの印象を一生忘れないであろう。それは戦争

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  • 『敵国アメリカの戦争宣伝』(GHQ焚書)を読む 1

    アメリカでその戦争宣伝の実態を見て来た中野五郎 宣伝戦関連のGHQ焚書をあたっているときに、中野五郎 著『敵国アメリカ戦争宣伝』というが目に入った。著者中野五郎は昭和5年に東京帝国大学法学部を卒業後東京朝日新聞社に入り、社会部、仏印特派員を経験した後、昭和16年(1941年)1月にニューヨーク特派員となったが、同年12月8日の日軍による真珠湾攻撃で太平洋戦争がはじまり、その直後にワシントンで秘密警察に逮捕された。そののち半年ほど抑留の身となったが、17年8月に第一回交換船*で無事帰還を果たしている。 *交換船:第二次大戦勃発後交戦国や断交国に取り残された外交官、駐在員、留学生などを帰国させるために運行された船。 中野五郎 『敵国アメリカ通信 続(開戦後の巻)』より こののはしがきで著者はアメリカの宣伝力について、以下のように述べている。 敵国アメリカは世界一を呼号する資源力と資

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  • 排日宣伝戦はさらに強まって行った 新聞記事で読む宣伝戦6

    さらに強くなった排日宣伝と年々減少していった対支輸出 前回は昭和8年の「宣伝戦」に関する新聞記事を採り上げさせていただいたのだが、今回は昭和9年以降の記事をいくつか紹介させていただく。 昭和8年にわが国は国際連盟を脱退したのだが、その後欧米列強の排日宣伝は強まるばかりであった。 国際連盟脱退以来日に対する列強の思想、政略戦はいよいよ猛烈に露骨となって来た。 先ず露国の対日赤化工作は我が国家組織を破壊し一朝有事の際祖国敗戦主義を以て国内を攪乱せんとするもので、ハバロフスクを始め欧露の各無電台より猛烈な排日放送を行うと共に、我が国内に於ては第三インターを通じ所謂左翼分子を踊らしてその策動を続けて居り、過般の浜松楽器争議に於て露国大使館員の手を通じ一万円の赤化資金がばらまかれた事実が最近に於て明かとなっている。 次で支那をみるに日支関係好転説を唱える者もあるが、南京の無電台は露のハバロフスクに

    排日宣伝戦はさらに強まって行った 新聞記事で読む宣伝戦6
  • 日支の紛争からわが国を世界大戦に導く陰謀 新聞記事で読む宣伝戦5

    を孤立化させる戦略 前回に引き続き「宣伝戦」に関する記事を採り上げていきたいのだが、今回は昭和8年の記事をいくつか紹介させていただく。この時代のわが国の新聞社は、今とは違ってどこかの国に忖度するようなことなく、堂々と「陰謀」という言葉を用いている。 南京社特電【十二日発】米露両国の介入した日支関係は真に憂慮すべき重大時期に直面するに至った。即ち張学良は対内的立場上すでに蒋介石と一蓮托生を決意し、蒋は軍費、多量の軍需品を張に急送しつつあり、これは張をして北支一帯の防備を固めさせ、長期対日抵抗を命ずるに至ったものである。 また米国から資金を得た支那は日を陥れるため、北平、天津、上海、南京、広東など重要都市の外国人方面に向って日の逆宣伝を開始し、太平洋問題の幻影に悩む米国は支那を通じて過去一年間日牽制に憂き身をやつしていたが、あくまでスチムソン・ドクトリン*を実現するため山海関事件*

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  • 第一次上海事変で策動した米国 新聞記事で読む宣伝戦4

    第一次上海事変 前回は「宣伝戦」に関わる昭和6年の新聞記事を拾ってみたのだが、今回は昭和7年の記事をいくつか紹介させていただくことにしたい。 この年の1月に租界(外国人居留地)のある上海で日支の衝突(第一次上海事変)が起きている。上海には日の工場などが多かったのだが、満州事変勃発直後に「上海抗日救国連合会」が組織され、ストライキが敢行され、租界には抗日ポスターが貼られ、学生や労働者による集会が頻繁に開催されて「打倒日帝国主義」が叫ばれていた。そして1月18日には日蓮宗の僧侶と信徒が襲撃されて、一人が死亡し二名が重傷を負う事件が起きた。この事件アメリカが仕掛けたものであることが、後に大阪朝日新聞記事で報じられている。 【上海特電二十日発】民国日報不敬事件に次で日蓮僧らに対する襲撃により憤慨した上海青年同志会員十数名が、二十日上海租界の三友実業社を襲い遂に巡警と衝突、双方死傷を出した

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  • 支那と英国の宣伝戦に振り回される日本 新聞記事で読む宣伝戦3

    再び支那の宣伝戦に襲われたわが国 前回記事で、満州事変勃発後直ちに支那は、満鉄を爆破したのは日であるとの宣伝戦を開始したのだが、国連は支那のために積極的な手段を取らぬことを決議し、支那市場におけるシェア拡大を狙っていた英米も支那が期待したようには動かなかったことを書いた。 上の画像は昭和6年10月2日の東京日日新聞の社説だが、次のように記されている。 宣伝戦では、わが政府は到底支那政府の敵ではない。去る十九日、支那代表が該事件を国際連盟に持ち出した当時、連盟のわが代表者たる芳沢大使の手許に、何一つ情報らしいものが到著していなかったということは、わが政府、わけても外交機関の悠長さを物語る以外に、宣伝戦ではとても支那側の敵でないことを示す適例の一つと見てよい。 しかしながら、この巧妙な宣伝戦以外に、支那側には、これを公然と中外に示し得るような公明な対日政策があるであろうか。宣伝戦が国の外交上

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  • 満州事変勃発直後の世界の動き 新聞記事で読む宣伝戦2

    昭和三十年に関東軍の自作自演に書き換えられた柳条湖事件 満州事変は1931年(昭和6年)9月18日に奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、日露戦争で大日帝国に譲渡された南満州鉄道の線路が爆破された事件 (柳条湖事件)を機に日支間の武力闘争がはじまり、関東軍が満州全土を占領するに至る事変を言うが、今日の教科書などの叙述やマスコミなどの解説も概ね同様で、戦争原因となった満鉄線路の爆破は関東軍の自作自演と記されている。しかし当時の記録や解説書では、満鉄線路を爆破したのは支那兵であると書かれていた。もちろん支那は日兵がやったと主張し続けたのだが、世界的は日の主張を認めていたのである。 しかしながら、以前このブログで書いた通り、昭和30年に発行された雑誌『別冊 知性』の12月号に、元関東軍参謀の花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」という記事が掲載されたことが契機となって満鉄線路を爆破したのは

    満州事変勃発直後の世界の動き 新聞記事で読む宣伝戦2
  • 第一次大戦終戦後の支那の排日 新聞記事で読む宣伝戦1

    支那の排日を仕掛けたのは英米である 前回まで山中峯太郎の『日を予言す』(GHQ焚書)のなかで、わが国が支那や英米やソ連の宣伝戦、思想戦に振り回されていたことが書かれている部分を紹介させていただいた。今のわが国の新聞とは違い、当時の新聞には各国からわが国に宣伝戦、思想戦が仕掛けられていたことについて数多く報じられているので、戦前の日人の多くがその点についてある程度理解していたものと考えられる。最初に紹介したいのは第一次世界大戦以降格化していった支那の排日だが、以前にもこのブログで紹介させていただいたように、当初は英米が仕掛けたものである。 第一次世界大戦中の一九一七年にロシアで革命が起こり、一九一八年三月にソ連新政府はドイツと単独講和を行い戦線を離脱。五月にはアメリカが参戦することでドイツの敗北は決定的となり、十一月に休戦協定が結ばれて、第一次大戦は終戦した。 四年以上続いた大戦で、欧

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  • 『日本を予言す』(GHQ焚書)を読む その4

    洗練されていないわが国の宣伝戦対応 ロンドン軍縮会議でイギリスの仕掛けた宣伝戦を報じる大阪毎日新聞 「神戸大学新聞記事文庫」軍事(国防)39-145 「宣伝戦」対策で、連合国主要国は第一次大戦勃発後に対外宣伝のための機関を組織したのに対し、わが国は支那事変勃発後「内閣情報委員会」を「内閣情報部」に格上げした程度で、この組織は対外宣伝ではなく対内宣伝に従事するものであったという。わが国では対外宣伝は「外務省情報部」の担当で、陸軍省の「新聞班」も海軍省の「軍事普及部」その他諸省に宣伝担当部門があったが、主たる業務は対内宣伝であったという。 また外国に対する「宣伝戦」の原則の一つに、相手国によって宣伝内容を変えるというのがあるのだが、イギリスはわが国に対しては、「興奮しやすい日国民だから、刺激を与えてはならない。」という方針で臨み、支那に対しては「支那人の特性に呼び掛けるように、利害関係から事

    『日本を予言す』(GHQ焚書)を読む その4
  • 『日本を予言す』(GHQ焚書)を読む その3

    戦時だけでなく平時においても行われる「謀略戦」 戦後の日では、どこかの国の謀略があったといった話はたいていの場合「陰謀論だ」とのレッテルが貼られて、それ以降国民の大半が思考停止に陥るパターンが多いのだが、かなり以前から世界の主要国で「謀略戦」が行われていたことは紛れもない事実であり、現在も同様なことが各国で行われていることを知る必要がある。山中峯太郎が以下述べていることは、今こそ日人が学ぶべき内容ではないだろうか。 ルシタニア号事件を報じる東京日日新聞の記事 「神戸大学新聞記事文庫」法制 2-15 思想戦は、謀略戦の中の一要素である。 「謀略戦」とは、平戦両時(平時も戦時も)ともに、相手国の総合的国力を、あらゆる方面から崩してかかる裏面の一大工作なのだ。この「謀略」は既に昔から各国に用いられ、戦争のあるところに必然に謀略が暗躍し、世界大戦に於いて各国ともさらに大規模に組織した。しかも戦

    『日本を予言す』(GHQ焚書)を読む その3
  • 山中峯太郎著『日本を予言す』を読む その2

    中国大陸におけるコミンテルン・ソ連の対日戦略 前回に引き続き山中峯太郎の『日を予言す』(GHQ焚書)を読み進んでいく。日の戦後の歴史叙述ではほとんど触れられることのない、盧溝橋事件以降の中国大陸に於けるコミンテルンの動きについて、山中は次のように述べている。 盧溝橋畔から、戦火が河北に挙がった。その直後、コミンテルンは計画していた指令を、中国人民青年団、護綏工作団、反帝同盟などに発して、「冀東除偽団」なる秘密結社を成立させ、中国共産党の有力分子が、これを指導した。この秘密団体の潜行勃発させたものが、残虐なる通州の乱であり、同時に、彼らの宣伝と煽動は、同時に天津市内の奇襲を計画通りに敢行させたのだ。 コミンテルンの秘密指令は、同時に満州へも飛んだ。紅軍匪に軍資と武器をソ満国境から給与し、一方、満州国内鉄道従業員の約一万人に、 「日は北支*を侵撃し、さらにその戈(ほこ)をソ連に向けて、全

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  • 山中峯太郎著『日本を予言す』を読む その1

    今回紹介させていただくGHQ焚書は、昭和12年に出版された山中峯太郎著『日を予言す』である。彼の詳しい経歴などは、昨年末に彼の書いた『日的人間』(GHQ焚書)というを紹介させていただいた時に書いたので省略させていただくが、彼の著作の十六点がGHQによって焚書処分されており、焚書された点数の多さは野依秀市、仲小路彰、長野朗に次ぐ水準にある。 なぜわが国が第二次世界大戦に巻き込まれたについては、戦後出版された解説書の類を読んでも腑に落ちない人が多いと思うのだが、その理由は、GHQにとって都合の悪い史実を記されたの多くが焚書処分され、そのような史実を語ることが戦後の長きにわたりタブーにされてきたことと無関係ではないであろう。GHQにかなり嫌われた彼の著作に何が書かれていて、焚書された原因がどのあたりにあったかを考えることで、より真実に近づけるのではないだろうか。 山中峯太郎はこのの序文

    山中峯太郎著『日本を予言す』を読む その1
    baribari_junny
    baribari_junny 2024/01/13
    おはようございます ☕ _ _))ペコリン  拝読エールで~す v(=∩_∩=)
  • 日本とユダヤ人の関係を考察した中山忠直のGHQ焚書を読む

    古代に日に渡来したユダヤ人は日に同化した 今回紹介したいGHQ焚書は中山忠直(なかやま ただなお)という人物の著した『我が日学』である。タイトルの書かれたページを開くと「書を二十一世紀に捧ぐ  中山忠直」と書かれており、我々のような二十一世紀に生きる日や世界の人々に著者の思いが託された書物であることがわかる。しかしながら、この書物は内務省が発禁処分を下し、戦後はGHQが焚書処分したために、この人物については戦後はほとんど知られていない。ウィキペディアには次のように記されているのだが、この解説は彼のを読まずに書いたことはすぐにわかる。 日の詩人、著作家。宇宙のイメージを盛り込んだ詩作品などによってサイエンス・フィクション (SF) に連なる先駆的なものと評価されている。マルクス主義を経て、勤皇社会主義と称する極右思想に拠り、さらに日人=ユダヤ人同祖説に立って天皇はユダヤ人の血

    日本とユダヤ人の関係を考察した中山忠直のGHQ焚書を読む
    baribari_junny
    baribari_junny 2024/01/09
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