ブックマーク / shibayan1954.com (220)

  • 淡路島三原平野の史跡と文化財を訪ねて 淡路島旅行①

    淡路島は何度か旅行をしているのだが、淡路島の南部にある三原平野は、古代から中世にかけて淡路国の政庁がおかれていたことから多くの史跡が存在し、また人形浄瑠璃の発祥の地であることに興味を覚えて、先日旅程を組んで淡路島各地を巡って来た。今回は三原平野を中心にレポートしたい。 天明の縄騒動と天明志士紀年碑 天明志士紀年碑と天明志士の碑 国道28号線の広田交差点を北西に進むと広田八幡神社があり、その東にある大宮寺(だいぐうじ:南あわじ市広田広田898)の境内の山手に「天明志士紀年碑」、その横に板垣退助が撰文した「天明志士の碑」が建立されている。いずれも、天明二年(1782年)に起きた淡路島最大の百姓一揆である「天明の縄騒動」の犠牲者を顕彰する碑なのだが、そもそもどのような事情で百姓一揆が起こったのであろうか。 当時淡路島を領有していた阿波藩は、参勤交代や幕府から命ぜられる相次ぐ土木工事のために財政が

    淡路島三原平野の史跡と文化財を訪ねて 淡路島旅行①
  • ドイツ及びナチス関連のGHQ焚書リスト

    これまでこのブログで採り上げたドイツ・ナチス関連のGHQ焚書 今までドイツやナチスに関するGHQ焚書について記事をいろいろ書いてきたが、これまでこのブログで採り上げたきたの記事をブログカード化してみた。気になった記事がもしあれば、読んでいただければ幸いである。また、今後新たに採り上げた書籍の記事は、ブログカードを追加していく予定である。

    ドイツ及びナチス関連のGHQ焚書リスト
  • リットン調査団は満州でトラブル続きだった

    前回の「歴史ノート」で、「リットン報告書」の内容はどのようなものであったかについて書いたのだが、調査団が決して公平中立的な立場で情報収集していなかったことは、当時の新聞にもしっかりと報じられている。戦前の日人なら誰しも憤慨したであろう重要な事実が、戦後の歴史叙述の中では採り上げられることがほとんどない。 今回は当時の新聞記事や論調を読みながら、戦前の日人がリットン調査団についてどのような印象を抱いたかを考察することと致したい。 満州国の治安を心配していた調査団 張学良 前回記事で、リットン調査団が三月に北平を訪れた際に張学良が設定した歓迎の宴に招かれて出席したことを書いた。中立的な立場で調査をすることが求められる調査団が、張学良の接待などを受けるべきでないことはいうまでもない。その後調査団が満州に向かおうとすると、満州国が調査団メンバーの一人でありかつて張学良の手下で働いていた顧維鈞(

    リットン調査団は満州でトラブル続きだった
  • 中国関連のGHQ焚書リスト

    これまでこのブログで採り上げた中国関連のGHQ焚書 これまで中国に関するGHQ焚書について記事をいくつか書いてきたが、中国に関するGHQ焚書は五百点をはるかに超え、国別のGHQ焚書点数を調べると英米などをはるかに上回り、ぶっちぎりの第一位となるのが中国なのである。 『支那事変写真帖』東光社 昭和13年刊(GHQ焚書)より GHQが焚書処分した書籍等の大半は、戦勝国にとって都合の悪い史実やものの考え方が記されているために処分されたと考えているのだが、その判断が正しいとすると、戦後に日人に広められた歴史中国に関してはかなり嘘が多いということになる。 『支那事変写真帖』東光社 昭和13年刊(GHQ焚書)より 以下、これまでこのブログで採り上げた中国関連のGHQ焚書に関する記事をブログカード化してみた。気になった記事がもしあれば、読んでいただければ幸いである。また、今後新たに採り上げた書籍の記

    中国関連のGHQ焚書リスト
  • 「リットン報告書」には何が書かれていたか

    リットン調査団の派遣 一九三一年昭和六年九月十八日に満州事変の発端となった柳条湖事件が起きたのだが、その三日後に支那政府は紛争の拡大防止を国際連盟に提訴している。それを受けて国際連盟理事会が開かれたのは九月三十日のことで、この時には支那の提案はいったん拒否されたが、この問題について十月、十一月にも理事会が開催され、日側からは調査団の現地派遣と支那全体を調査対象とすることが提案されたのだが、支那がそれを拒否したという。しかしイギリスが支那を説得したこともあり、十二月十日の理事会で全会一致で調査団の派遣が決定した。メンバーは英米仏独伊の五ヶ国から選ばれることになり、イギリスのリットン伯爵が委員長となったことからこの調査団を「リットン調査団」と呼ぶことが多いのだが、正式名称は「国際連盟日支紛争調査委員会」という。 中華民国の上海に到着した国際連盟日支紛争調査委員会調査団一行(Wikipedia

    「リットン報告書」には何が書かれていたか
  • ソ連、ロシア関連のGHQ焚書リスト

    これまで英国関連、米国関連、満州関連の焚書リストを紹介させていただいたが、今回はソ連、ロシア関連のGHQ焚書リストを公開させていただく。これまでこのブログの記事でロシア及びソ連についていろいろ書いてきたが、これまで採り上げさせていただいたGHQ焚書についての記事はブログカード化してみた。今後新たに採り上げた書籍の記事は、ブログカードを追加していく予定である。

    ソ連、ロシア関連のGHQ焚書リスト
  • 中国が満州国を「偽満州国」「傀儡国」と呼んだ事情

    満州はいつから漢民族が支配するようになったのか 紀元前三世紀に中国を統一した秦の始皇帝は、遊牧民が生活していた満州・蒙古を統一することが出来ず、彼らによる北方からの侵入を防ぐために万里の長城を建設している。このことは二千年前において満州・蒙古が漢民族の領土ではなかったことを意味しているのだが、それ以降漢民族が支配した支那歴代王朝の版図が、万里の長城を超えて満州に及んだことは、1912年に中華民国が成立するまでは歴史上存在しなかった。 金・元・清の版図は満州にも及んでいたという反論があると思うのだが、これは満州族・女真族(金・清)、蒙古族(元)という異民族が、逆に長城を超えて漢民族を支配したことによる。 万里の長城は「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われいて、その外側は「化外の地」とされて支那の統治下ではなかったことを意味するのだが、その位置は南北両勢力の強さや歴代王朝の国防方針等により移動

    中国が満州国を「偽満州国」「傀儡国」と呼んだ事情
  • 満州関連GHQ焚書リスト

    これまで英国関連、米国関連の焚書リストを紹介させていただいたが、満州関連のGHQ焚書リストの点数が、英国と米国のGHQ焚書点数を合計した点数したよりも多いというのは、私にとっても意外であった。 GHQが戦後の日人に読まれないように処分したには、余程戦勝国にとって都合の悪い史実が描かれている点にあると考えるのだが、それが正しいとすると、満州に関しては彼らにとっては知られたくないことが記されているということになる。 これまでこのブログで採り上げた満州関連のGHQ焚書 『満蒙事変大写真帳』(GHQ焚書) 表紙 満州についてはテレビや新聞で解説されることはほとんどなく、ようやく最近になって「国立国会図書館デジタルコレクション」や「神戸大学新聞記事文庫」などで読み始めたばかりで、まだまだ満州については勉強不足である。これまでこのブログで何度か満州に関するGHQ焚書について記事を書いてきたが、それ

    満州関連GHQ焚書リスト
  • 満州各地で独立運動が起きたのはなぜか

    張学良軍が総崩れとなった理由 一九三一年九月十八日、奉天から北東に八キロ程の柳条湖で、南満州鉄道の線路が何者かによって爆破された。この付近の警備に当たっていた関東軍守備隊は大隊部と特殊機関に報告をし、関東軍はこれを張学良率いる東北軍の仕業として、奉天市の北郊外にある彼らの駐屯地・北大営を攻撃し占拠した。 当時関東軍の兵力はそれほど多くはなかった。条約により満鉄を守備する兵力は一キロ当たり十五人まで規定されていたため、関東軍は司令部要員を含めて総数一万五千人程度であったのだが、一方の張学良軍には三十万とも四十五万とも言われていた。事件当時張学良は十一万五千の兵を率いて北平(現在の北京)に滞在していて、北大営ほか瀋陽や寛城子などに残りの兵を駐屯させていたのだが、わずかな兵力であったにもかかわらず関東軍は翌十九日中には満州南部の主要都市のほとんどを占領してしまったのである。 それまで排日侮日に

    満州各地で独立運動が起きたのはなぜか
  • 米国関連のGHQ焚書リスト

    これまでこのブログで採り上げた米国関連のGHQ焚書 『敵国アメリカ戦争宣伝』(GHQ焚書)を読む3より これまでアメリカに関するGHQ焚書について記事をいろいろ書いてきたが、これまで採り上げたの記事をブログカード化してみた。今後新たに採り上げた書籍の記事は、ブログカードを追加していく予定である。 アメリカでその戦争宣伝の実態を見て来た中野五郎  宣伝戦関連のGHQ焚書をあたっているときに、中野五郎 著『敵国アメリカ戦争宣伝』というが目に入った。著者中野五郎は昭和5年に東京帝国大学法学部を卒業後東京朝日新聞社に入り、社会部、仏印特...

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  • 米国外交官が記した柳条湖事件の真実

    柳条湖事件が起きるまでに満鉄施設が何度支那人に襲われたか このブログで何度か昭和六年(1931年)に満州事変の発端となった柳条湖事件のことを書いてきた。 繰り返しになって申し訳ないが、満州事変に関するわが国の戦後の歴史叙述では、昭和三十一年(1956年)十二月に発行された雑誌『別冊 知性』第五号に、元関東軍参謀の花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」という記事が掲載されて以降、柳条湖事件は関東軍が満鉄線路を爆破したことが通説となっているのだが、この雑誌の記事は花谷正人が書いたものではなく、当時二十三歳の東大生であった秦郁彦が花谷に取材し、自分の名前を伏して花谷正の手記として発表されたものだという。当時は満州事変にかかわった庄繁、板垣征四郎も、石原莞爾もすでに他界しており、その雑誌記事の真偽は今となっては確認のしようがないのだが、満州事変が関東軍の自作自演であると主張する研究者の

    米国外交官が記した柳条湖事件の真実
  • 英国関連のGHQ焚書リスト

    これまでこのブログで採り上げた英国関連のGHQ焚書 二年前にこのブログの記事で、英国関連のGHQ焚書リストを掲載させていただいたが、その後「国立国会図書館デジタルコレクション」が大幅にリニューアルされて、GHQが焚書処分したのほとんどが「個人向けデジタル化資料送信サービス」の手続きをすることで読めるようになっているので、以前テーマ別に作成したリストすべてについて、同サービスで読むことが可能な書籍のURLを加筆してリストを再作成することにした。 今回は書籍やパンフレットのタイトルに「イギリス」あるいは「英(国)」を含む書籍を集めて、タイトル名の五十音順にならべてみた。これまで紹介させていただいた書籍については、記事をブログカード化したので、記事のタイトルで面白そうなものがあれば選択して読んでいただければ幸いである。

    英国関連のGHQ焚書リスト
  • 明石と周辺の古社寺等と魚の棚を訪ねて

    神社と月照寺 明石市の人丸山の頂上に柿神社(明石市人丸町1-26)と月照寺(明石市人丸町1-29)がある。明治四年(1871年)の神仏分離令により寺と神社が分離されてしまったのだが、以前は神仏習合で一体であった。 上の画像は柿神社の東鳥居である。 柿神社の御祭神は飛鳥時代の歌人で、山部赤人とともに歌聖と仰がれた柿人麻呂である。「人麻呂」は「人麿」とも書き、平安時代からは「人丸」と書かれることが多いという。 柿人麻呂が明石と縁のある人物とは、恥ずかしながら今回の旅程を立てる時に初めて知ったのだが、明石で人麻呂が詠んだ歌がいくつか残されていて、案内板には神社の由緒とともに次の二首が案内されていた。 「天離(あまざか)る 夷(ひな)の長通(ながち)ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ」 「留火(ともしび)の明石大門(あかしおおと)に入(い)る日にか 漕ぎ別れなむ家のあたり

    明石と周辺の古社寺等と魚の棚を訪ねて
  • 明石の古社寺と明石城跡を訪ねて 

    明石市を観光で訪れる人はあまり多くないと思うのだが、色々調べると結構面白そうな寺や神社などがあるので、先日散策して来た。 御厨神社 最初に訪れたのは明石市二見町東二見1323にある御厨神社(みくりやじんじゃ)。この神社の由緒は火災で記録を焼失してしまったために創建の年月などは詳らかでないが、社伝によると神功皇后が新羅遠征の時に二見浦に船を休ませて兵糧を集めたので、神名を御厨と言われるようになったそうだ。以前はもっと二見浦に近い場所(現在の君貢(きみつぎ)神社:明石市二見町東二見1)にあったのだが、長歴年間(西暦1037~1039年)に現在地に移されたという。 御厨神社 鳥居 祭神は応神天皇と菅原道真と素戔嗚尊の三神だが、『播磨鑑』には天満宮とあり、左天満天神(菅原道真) 中八幡宮(応神天王、神功皇后)右牛頭天王を三社相殿に祀る、とある。 御厨神社 社殿 上の画像は社殿だが、拝殿の壁には古い

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  • 支那の匪賊についての新聞記事を読む その3

    満州における匪賊・共匪との戦い 前回記事で昭和10年ごろに支那共産党が匪賊を取り込んで北支(現在の華北で、河北省、山西省、山東省、河南省)に移動させたことで北支の共産化が進み、一方ソ連も満州の匪賊を取り込んでいて、日軍が駐留していた満洲においても、共匪に襲われて日人の犠牲者が出た事件が何度か起きたことが新聞で報じられていることを書いた。その後満州はどのようになったのか。満州に関する記事を中心に見ていくことにする。 「神戸大学新聞記事文庫」朝鮮・台湾・満州16-18 上の画像は昭和11年3月6日の満州日日新聞だが「三月四日現在関東局調査による匪賊状況は、活動匪首三十三名、その匪数一千百七十四名、同集団数二十五名」とあり、随分匪賊が少なくなっているように読める。 しかながら匪賊というものは、捕まえられそうになれば逃げて姿をくらまし、さらに平民の姿に変身してしまえばまず捕まることはないし、安

    支那の匪賊についての新聞記事を読む その3
    baribari_junny
    baribari_junny 2024/05/25
    おはようございます ☕ お久しぶりです _ _))ペコリ  24/05/25の拝読エールです ❢
  • 満州民族の故地・満州の人口の九割が漢民族となった経緯

    前回記事で、満州は満州族の故地で漢民族はかつてわずかしか居住していなかったのだが、清末以降に大量の漢民族が満州に移り住むようになって、一九三八年頃には満州の人口の九割が漢民族となったことを書いた。今回はこの点についてもう少し詳しく書くことと致したい。 満州で漢民族の人口が大幅に増加した主因 長野朗(ながのあきら)の作品は今までこのブログで何度か採り上げさせていただいたが、彼の『満州の過去と将来:満洲問題叢書. 第5巻 』(GHQ焚書)には次のように解説されている。わが国が満州に巨額の投資を行っている最中にこのような問題が進行していたのである。 清朝になってその故郷の漢人の為に占められることを虞(おそ)れ、封禁の令を下して漢人が従来住んでいた遼東の地からさらに北進することを禁じた。しかるにロシア勢力の東漸は支那をしてこれに備えるため辺境移民の必要を感ぜしめたが、それは大したものではなかった。

    満州民族の故地・満州の人口の九割が漢民族となった経緯
  • わが国が開拓した満州を狙っていた国々

    わが国が「満州」の開拓を始めた歴史的経緯 「満州」という言葉は「州」の字が付くことから、地名と誤解されることが多いのだが、中国語では土地の名前ではなく民族名、即ち満州民族を意味している。しかしながら、清国を支配した満州族の居住地域を、英語で「マンチュリア(Manchuria)」と呼ばれるようになり、それに対応してわが国でも中国東北部を「満州」と呼ぶようになったとされる。 『大満洲国建国紀念写真帖』昭和9年刊 より 上の画像は1932年に成立した「満州国」の地図で、清国の「東三省」*(トウサンショウ:黒竜江省、吉林省、奉天省の三省)及び内蒙古、熱河省を領土としていた。来は「満州」という言葉は、満州族の故地である清国の東三省を意味するが、わが国では「満州国」の領土を指すことが多いと言う。 *東三省:この地名は戦後は用いられていない。また奉天省は今は「遼寧省」と呼んでいる。 戦後のわが国におい

    わが国が開拓した満州を狙っていた国々
  • 戦後「満州」「満州国」に関する多くの真実が封印されてきた

    戦前のわが国や世界で、満州についてどのように論じられていたか 現在の中国東北三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)、及び内蒙古、熱河省を領土として一九三二年(昭和7年)に「満州国」という国が成立したのだが、戦後のわが国においてマスコミや書物などを通じて「満州国」や「満州」のことを詳しく知る機会はほとんどなかったといって良い。 駒井徳三 著『大満洲国建設録』中央公論社 昭和8年刊より Wikipediaによると今日の中国では、「20世紀の満洲国を清朝の前身である満洲を詐称しているとして、「偽満洲国」の呼び方以外は認めていない」のだそうだが、そういえばわが国における「満州国」の解説には、たいていの場合「傀儡(かいらい)」という文字が付け加えられており、中国に忖度しているような内容になっているのだが、あの国が声高に主張する歴史をそのまま鵜呑みにしてよいのだろうか。 国立国会図書館デジタルコレクションで

    戦後「満州」「満州国」に関する多くの真実が封印されてきた
  • 上海と明治維新  白柳秀湖『日本外交の血路』を読む6

    引き続き白柳秀湖の『日外交の血路』(GHQ焚書)を読み進んでいく。前回は、昭和七年三月に開かれた徳富蘇峰の古稀記念講演会の中で、白柳が「上海と明治維新」という演題で講演した内容の前半で、英仏米の三国が上海に共同租界を建設して支那経略の足掛かりとしたことを書いたが、今回はその後半を紹介させていただく。 最初にアメリカを相手に開国交渉できたことの意味 イギリスが支那で手こずっている間にアメリカが日との交渉に動き出した。文中の「チュートン人」という言葉について簡単に捕捉させていただくと、ヨーロッパに住む人々はアルプス以南と以北では文化も考え方も大きく異なり、白柳秀湖は前者をラテン人、後者をチュートン人などと呼んでいる。大航海時代に東洋を征服するために航海に出たのはスペイン、ポルトガル等のラテン人で、その当時イギリス人やオランダ人等のチュートン人はラテン人からは「海賊」と呼ばれていて、船員など

    上海と明治維新  白柳秀湖『日本外交の血路』を読む6
  • 幕末期における英米仏三国の動き  白柳秀湖『日本外交の血路』を読む5

    引き続き白柳秀湖の『日外交の血路』(GHQ焚書)の内容の一部を紹介させていただく。このは白柳が雑誌などで発表して来た時局に関する論説を収録したものだが、昭和七年三月に開かれた徳富蘇峰の古稀記念講演会で彼が「上海と明治維新」という演題で講演した内容が書き起こされている。 上海勢力=英米仏三国の勢力 冒頭で白柳は次のように述べている。 上海という所が、わが明治維新の改革の上にどう働きかけたか、またその働きかけた上海の勢力、即ち英米仏の勢力というものが、どういう状態にあったかについて、一つ自分の考えを述べさせていただきたいと思います。 いったいどこの国でもそうでありますけれども、その国に非常の大改革が起こりかけますと、その国と利害関係の最も緊密な隣国、もしくは隣国のある地点から、由々しい干渉の起こるものだということを、私は平生歴史を読んで深く感じているものであります。つまりその国の改革を妨げ

    幕末期における英米仏三国の動き  白柳秀湖『日本外交の血路』を読む5