●歴史的にみると、どんな王道をゆくようにみえる巨匠でも、その人物が実際に現役として作品をつくっていた時には、決して安定した文脈のなかで自らの作品の正統性を保証されて作品をつくっていたわけではなく、他にも大勢居る作家の一人として、事前に確定された価値に守られることなく、自身の探求への懐疑や迷いをもちつつ、よるべない行いとして制作していたはずなのだ。つまり彼等は常に特異点として存在していたのであって、王道として存在していたわけではない。それが歴史へと回収され、事後的に文脈が整理された後から振り返ると、それがあたかも王道であり、ある種の正しさや法(象徴的な秩序)という原理に忠実であったかのようにみえてしまう。例えば、ピエロ・デラ・フランチェスカやティツィアーノやセザンヌが今観ても素晴らしくリアルなのは、西洋美術の正統な王道だからではなく、それぞれが特異点だからなのだし、グリフィスやフォードやヒッ