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ブックマーク / furuyatoshihiro.hatenablog.com (60)

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    ●『データの見えざる手』(矢野和男)というの、第一章だけ読んだのだけど、これは恐ろしいだ。こののイントロダクションには、「科学の進歩のきっかけの多くは、新たな計測データの取得から」というようなことが書かれているのだが、文を読むと、この言葉が恐怖の感情と共に迫ってくる。先を読むのが怖い。 ●人間には、例えば、同じ計算のステップを延々十万回も繰り返す、ということを(「実験」として)行うのはとても困難だ。さらに、もし同じステップを十万回繰り返したとしたらその結果どうなるのか、ということを想像することも難しい。人間が考える因果関係や論理的展開は、そういう形での思考に対して無力だ。しかしこの世界は、実はそのような、無数の単調な繰り返しのなかで少しずつ「このようなもの」になってきたのだとしたら……。 でも、コンピュータによるシミュレーションは、いとも簡単にそれをやってのけ、そして驚くべき結果を

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    ●『ユリ熊嵐』第一話。快調な滑り出しという感じ。とても楽しい。 「ピングドラム」では、まずなんといっても「せいぞーんせんりゃくー」で、がっつりと人の心を掴んだのだけど、「ユリ熊嵐」では、そのような一発掴みはなくて、そのかわりたくさんのギミックがいろいろ散らしてある感じ(「デリシャスメル」は、それだけでは「生存戦略」ほどのインパクトはないが――せいぜい「ファビュラスマックス」くらいの感じ――様々な合わせ技との関係で生きる感じ)。 ただ、主題的には「ピングドラム」や「ウテナ」に比べると単調になるかもしれないという危険を、ちょっと感じる(まあ、でもまだ一話目だから…)。「透明な嵐」というのは要するに集団のなかで発生する同調圧力的なイジメ的なものの力で、それに対し「好きをあきらめない」というのは、群れの空気に埋没しない個と個の関係を貫くということで、そこに「承認(超越的な裁き)」とか「熊」とかいう

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    ●『進撃の巨人』、一応最後まで観た。といっても、話は全然終わっていないし、区切りすらついていない感じ。 で、結局これって「ブラック企業万歳」という話なのか、と思ってしまった。というか、世界全体がブラック企業化してしまったとしたら、そこで生きる人は、それぞれのやり方でそれに必死に適応する(ブラックに染まる)しかない、という話だというべきか。世界全体が脅迫と脅迫で塗りつぶされ、無根拠に繰り返し回帰してくる圧倒的な(ほとんど恐怖症的な)恐怖と破壊によって尻を叩かれ、環境への過剰なまでの適応へと、追い込まれるように強要される。そこでは主体には常に莫大な負荷がかかり、その負荷が適応へのモーターのさらなる動力源となり、必要以上の適応への希求がほとんど自滅(自傷)への希求と区別がつかないほどにまで昂進する(「エヴァ」のシンジのように、悩んだり逡巡したりできる余裕さえない、そしてここには、「同志」はいても

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    bartleby0911 2014/01/06
    “「この世界は残酷だ、しかし美しい」という決めゼリフのようなセリフがあるけど、この作品世界は、確かに残酷だけど、ちっとも美しくはない。これを「美しい」と思ってしまうことこそがヤバいんだ、とぼくは思う。
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    ●明日は祖母の誕生日で、祖母は明日で百歳になる。日曜日である今日、祖母の子供や孫が集まってお祝いの会をした。祖母自身に、百歳になったということがどのくらい理解できているかはよく分からない。どういう人たちが集まっている会なのかを理解しているかどうかもよく分からない。きょとんとして座っている。写真をたくさん撮られる。祖母はこのような場ではいつも、「鞭声粛粛夜河を渡る…」と詩吟を披露する。それは今も正確に歌うことができる。

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    ●キャンバス(F15)に、モデリングペースト、水彩絵の具。 ●『もののけ姫』。改めて、これはすごいな、と思った。ただ、とんでもなくすごいことは確かなのだけど、いまひとつ面白くない。とはいえ、いまひとつ面白くないということをもって否定できるような、そんな程度のすごさの作品ではない、というくらいのすごさがある。これだけのことをやり切れる人はきっと他にはいないし、これだけのものに対して文句をつけられる人もいない。ただただ、圧倒される。でも、やはり、いまひとつ面白くないことは事実だ、ということを付け加えたくはなる。 (ここで、「いまひとつ面白くない」というのは、例えばクオリティが低いとか、あそこの演出がいまいちとか、そのようなことではなくて、あくまで、いつものあの「のってくる」感じが希薄だ、というような、主観的な印象の問題だし、それこそが重要だと思うのだ。) とんでもなく大きな風呂敷を広げて、その

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    ●科学の発展によって、人間は人間自身のことをあまりにもいろいろと分かり過ぎるようになっている。しかしその、「分かり過ぎてしまう」という事実に対してどのように対処すればいいのかということは、誰もあんまり分かっていない。一昨日いろんな人の話を聞いていて思った。 そしてさらに、人類としては様々なことが「分かっている」からと言って、個々の「わたし」、それぞれの「わたし」たちは、そのすべてを知ることができるほど頭もよくないし、それをすんなり受け入れられるほど心もひろくないし、そもそも生活に追われていて知ろうとする余裕もない(専門家だって自分の専門のことしか分からないだろうし、現在では、ゼネラリストであるためには病気になるくらい頭が良い必要があると思う)。 科学的な認識や工学的な技術は劇的に変化するが、常識はゆるやかにしか変化しない。そのことが人の心や社会が一定の安定性を確保するために役立っている。だ

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    bartleby0911 2012/12/19
    科学的な認識や技術的な現状と(一人一人の人にとっての、という意味まで含めた)「常識」とのギャップが、あまりに大きくなるのも危険だし、それを放置しておくときっとひどいことが起こる(そのギャップは今日、恐
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    ●ぼくは、例えば『まどか☆マギカ』にかんしてはいくらでも悪口が出てくるくらいのアンチではあるけど、そのように、ある作品を批判しようとして何かしらの正当性のある論理を組み立てようとする時、そこにどうしても付随して起動されてしまう「ブラックなモード」をどう処理するのかということは、とても難しい問題だ。そこに「悪意(意地悪なモード)」が知らぬ間に発動してしまっていることに気付いて愕然とし、冷や汗が出る。そしてさらにやっかいなのは、批判的な論理を組み立てようとしている時、それが作品に対する批判をしようとしているものなのか、その作品をほめている人たちをやっつけようとしているものなのかが、いつの間にかごっちゃになってしまいがちだということだ。ある批判が、世間の圧倒的な評価に対する違和感として表明される時、それを逆転して溜飲を下げたいという欲望とどこかで通じ合ってしまう。でも、溜飲を下げることなどが目的

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    ●『野生の思考』の第一章はとてもすばらしくて、何度も読み返してしまってなかなか先にすすまない。一章の最後には、器用人(ブリコルール)の仕事と科学者の仕事の中間に位置するものとしての美術が考察されている。ここで美術は、西洋美術と工芸、そして未開美術の三つに区分されながらも、どれも「事物+出来事」(つまり偶発性)から出発して「構造」の発見にむかう点で一致しているとされる。ただ、偶発性には三つの層があり、(1)西洋美術、(2)未開美術、(3)工芸では、その「主な偶発性」があらわれる時期が異なるという。それは(1)制作に先立つ偶発性としての「機会(その時の世界の状態、風俗、モデル)」、(2)「制作(制作の内にある偶発性、メディウムの抵抗や、技法・材料による限定)」、(3)制作後の時間から逆算される「用途(用途・目的が制作を限定する)」とされる。勿論、すべてがすべての偶発性を内在するのだが、その配分

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    ●ゴッホがもし、弱度の色覚異常だったと仮定すると(そうであった可能性があると言われているらしい)、ゴッホには自分の描いた絵がこのように見えていた(ゴッホはこのようなものとして絵を描いていた)はずだ、というシミュレーションをしている記事をみつけた。 http://asada0.tumblr.com/post/11323024757 ちょっと画像が小さすぎるように思うのだが、これはとても面白い。確かにそうかもなあと、納得してしまう部分もある。全体的に、物の描写と三次元的な空間表象という観点からは補正後の作品の方がすぐれているように見える。それと、補正後の作品の方が、常識的というか、普通に見やすい感じになっている。 補正後の作品は、ゴッホに特有の、あの気持ち悪い感じの黄緑が黄色に近い方向で抑えられ、いかにも唐突な感じで出てき過ぎる赤系の色が、茶色に近い方向で抑えられている気がする。 花畑を描いた

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    ●ここ何日かは停電がなくて済んでいるけど、停電をきっかけに今までまったく聞かなかったラジオをいろいろと聞いてみようかと思っていた。でも、どうもぼくはラジオが苦手みたいだと分かった。テレビなら、点けっぱなしにして別のことをやりつつ、気になった部分だけパッと観てまた離れるということが出来るけど、ラジオの喋りは、こちらにべったりくっ付いてくる感じがあって、どうしても「流して」おけない。なんというか、パーソナルな部分に入り込んでくるような感じで、聞いていて恥ずかしいというか、陶しいというか、なんか「近すぎる」感じにもぞもぞしてしまう(中高生の頃はラジオ好きだったのだけど)。 どうもぼくは、「感情の共有」のようなものを前提にするものが苦手であるらしい。ぼくが、ロックやヒップホップみたいなものにどうしても馴染めない感じがあるのは、それらがある種の感性や感情の共有という点に強く作用する音楽だからではな

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    ●誰だったか忘れたけど、私は自分が知らないことについてしか書けない、と言った作家がいたということを、誰かから聞いた。「誰か」ばっかりだけど、これって別に誰がそう言ってもおかしくない、特に偉大な人でなくても作品をつくる人ならきっとみんなが知っていることで、自分が既に知っていることに頼ってしまった瞬間、あるいは、自分が既にできると分かっていることをやってしまった瞬間、作品は死んでしまう。死んでしまうという言い方が大げさすぎるとしたら、作品が緩んでしまう、弛んでしまう、スカスカになってしまう。 これはすごくリアルで(つまり、いつもいつも必ずこの言葉に忠実でいられるわけではないということもまた身に染みて知っているということ)、かつ、当たり前のこと(この言葉に忠実でいられるかいられないかは制作のなかで日常的に常に問われているということ)なのだが、しかし、その実感を知らないで言葉だけを聞くと、たんに「

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    bartleby0911 2011/03/10
    こんなことはちゃんとした人なら誰でも知っているごく普通の感覚なのだ、という、この「感じ」を伝えるのがとても難しい。
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    ●ぼくにはどうしても、自分が音楽に対して距離がある、疎遠だ、という感じがある。中高生の時は人並みに聴いたけど、それは「音楽」そのものを聞いたというよりも、ある種の精神性の象徴のようなものとして、新鮮な空気のようなものとして、それを必要としていたという感じだと思う。『音楽嗜好症(ミュージコフィリア)』(オリヴァー・サックス)の「失音楽症」の部分を読んでいると、ぼくにとっての「音楽の聞こえ方」に近い感じの記述があった。事故にあった音楽家の話。 ≪それなのに頭を強打して、すべてが一変したのです。絶対音感は消えました。今でも音の高さを聞き分けることはできますが、その名前と音楽空間における位置を認識することができません。たしかに聞こえますが、ある意味で、聞こえすぎるのです。すべてを等しく吸収するので、当に苦痛を感じることがあるほどです。フィルタリングシステムなしにどうやって聴けばいいのでしょう?≫

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  • 歴史的にみると... - 偽日記@はてなブログ

    歴史的にみると、どんな王道をゆくようにみえる巨匠でも、その人物が実際に現役として作品をつくっていた時には、決して安定した文脈のなかで自らの作品の正統性を保証されて作品をつくっていたわけではなく、他にも大勢居る作家の一人として、事前に確定された価値に守られることなく、自身の探求への懐疑や迷いをもちつつ、よるべない行いとして制作していたはずなのだ。つまり彼等は常に特異点として存在していたのであって、王道として存在していたわけではない。それが歴史へと回収され、事後的に文脈が整理された後から振り返ると、それがあたかも王道であり、ある種の正しさや法(象徴的な秩序)という原理に忠実であったかのようにみえてしまう。例えば、ピエロ・デラ・フランチェスカやティツィアーノやセザンヌが今観ても素晴らしくリアルなのは、西洋美術の正統な王道だからではなく、それぞれが特異点だからなのだし、グリフィスやフォードやヒッ

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    bartleby0911 2010/12/27
    このような文化への敵意それ自体が、ある程度の文化的な資本(の蓄積)によって可能になることは否定しようもない。文化とはあからさまに権威主義によって成り立つものなのだが、人は権威主義(つまり他者への依存や転移
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    ●いわゆる「現実」は、現実の一部であって決してすべてではないことを、少なくとも忘れないようにしたい。「現実」の外にこそ、別の世界-現実があるかもしれないのだし。「現実」を否定するのではない。だが、それは決して「すべてではない」。それが「すべてではない」ということのなかに(だけ)希望がある。「現実」を変えようとする思考は必然的にマチズモへ至る。そうではなくて、「現実」のなかに、それが「すべてではない」ことを示すしるしを見つけ出すことが、何かを創り出す可能性を開く。そこで生まれるささやかなものによって、かろうじて私は生きることができる。そして、その可能性をあらかじめ閉じようとする「現実」の恫喝に負けないためにこそ、芸術はある。その歴史の蓄積こそが、そのための力となる。 常に夢見がちでいて、進んで夢のなかへと踏み込んでゆこう! 「現実」よりも夢の方がリアルだということは、「現実」から夢への撤退な

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    ●この作品を理解するには、最低限、これこれの文脈は押さえておけ、みたいな言い方にはどうしても反発を感じてしまう。いや、それが善意の啓蒙(親切な教育)だということは分かるし、そういうことを言う人は大抵、頭が下がる位に勉強したり努力したりしてる人であることも多いし。だから、そのような物言いを頭から否定したり、意味がないと言ったりは出来ない。いや、きっと意味はすごくあるんだと思う。でも、やはりどうしても、そういう言い方では何かを「開く」あるいは「つくる」というところには、最終的にはつながらないんじゃないかと思ってしまう。 それぞれの人が一人一人、それぞれ異なる文脈の複合のなかを生きているのだから、少し位置がズレれば、相手の「ある文脈」は見えても「別の文脈」は見えなくなる。わたしからは相手の一部しか見えないし、相手からもわたしの一部しか見えない。だから、わたしとあなたとを同一平面上に配置することは

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    bartleby0911 2010/12/02
    それぞれの人が一人一人、それぞれ異なる文脈の複合のなかを生きているのだから、少し位置がズレれば、相手の「ある文脈」は見えても「別の文脈」は見えなくなる。わたしからは相手の一部しか見えないし、相手からも
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    ●引用、メモ。帰って来られないことについて。そういえば、『漂流教室』(楳図かずお)の子供たちも、未来に行ったきりで帰って来られなかったのだった。楳図かずおの作品は、決して帰ってこられない場所へ連れていかれることと、そのような場所においてさえ外傷を保持しつづけようとすること(ある、同一性の内に留まろうとすること)との軋轢を、その力の源泉としているかのようだ(不可避の変容−変容の拒絶という力の拮抗が、変身への恐怖、あるいは、存在への郷愁という作品の意味=感触を生む)。河英夫「病と経験の可能性」(「SITE/ZERO ZERO/SITE」(1))より。 《現に成立している現実以外に、異なる現実があるということを理論的に認めるだけであるならば、誰にとっても困難はない。パラレルワールド、可能世界、多次元世界のような言葉は、ある共通の特質を備えている。理論的な視点の位置から、別様である世界を捉えてい

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    bartleby0911 2010/11/18
    哲学や思想は、拡張された経験を可能な限り明確に語るための貴重な手段だが、経験の可能性の拡張そのものには役に立たない。
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    ●なんか、『日の夜と霧』(大島渚)を観たことは、自分で思っている以上にぼくにショックを与えているようだ(16日の日記参照のこと)。 ●世代を細分化する語りは常に退屈だと思う。世代を細分化する語りが言いたいのは、要するに「俺らの世代は特別だ」っていうどうでもいい自意識に過ぎない。「俺らの世代の前と後とでは世界が大きく変わったのだ」と思いたい、つまり「俺らは特別の存在だ」という。 勿論、世代の違いによる解消出来ない差異はある。しかし、それはどんな世代間にも常にあるものでしかない。また、世代間の社会的な場での利害の対立というものも、決してなくなることはない。しかし、「決してなくなることがない」ということは、常にあるということで、そんなの全然特別なことではない。ありふれている。たんに世代間の利害の対立(古い世代に対する新しい世代の利害闘争)という古くさくてありふれたものを、あかたも革新的、革命的

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    bartleby0911 2010/09/21
    世代論を語る者は、世界-社会を語るフリをして自分を語り、それによって世界-社会を観念的に我有化する、「私の気持ち」を世界に貼り付ける
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    ●昨日の夜中にテレビを観ていたら、名前は忘れたけどなんとかいうデジタル技術の紹介をしていた。例えば、撮影時に、一秒間に三十コマという速度で撮影された映像が放送によって送信されてきたとして、それを受信した受像器としてのテレビが、コマとコマとの間にあり得る、実際には存在しないコマを計算上で作り出して、一秒あたり六十コマという、よりなめらかな動きの画面としてアウトプットする、というような技術。つまり、発信者が発信した時には「存在しないコマ」を、受信者の側(テレビ)が、計算によっていわば勝手につくり出して付け加えるのだ。 これはある意味「捏造」ですらあるのだが、しかし考えてみれば、通常、一秒間に二十四コマの静止した連続写真でしかない映画を、あたかも動いているイメージであるかのように知覚-経験するということ自体が、それを見た「それぞれの人の頭」が勝手に運動をつくり出しているに過ぎないわけで、運動-感

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    ●起きたらすごく天気がよくて、天気予報だと明日から当分天気が悪いようなので、今日は制作はお休みにして外をうろうろ歩く。ついでに立川まで足を伸ばして足りない画材を買う。 ●立川でふらっと立ち寄ったオリオン書房でなんとなく目について買った、藤山直樹という人の『集中講義・精神分析』(岩崎学術出版社)というがすごく面白い。まだ、上下二巻のの上巻の半分くらいしか読んでないけど、この部分では、精神分析の理論についてというより、精神分析という「営み」について分析家が語っていて、そこがすばらしく面白いのだった。精神分析を、胡散臭いとかカルト的だとか近寄りがたいだとか思っている人は、まず、このの第一章「精神分析とは何か」を読むだけで、ずいぶんとそのイメージがかわるんじゃないかと思う。 まず、たんじゅんに驚いたのは、今、日には分析家が三十人しかいないという事実だったりする(とはいえ、ラカン派は国際精神

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    bartleby0911 2010/06/18
    つまり、精神分析は分析する-されるという二人のカップルの間-関係においてしか作動しない知であり技法である、と。そしてそのプラクティスは非常に個人的なもので、分析家とクライアントの間の個人的な「契約」によ
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    ●物語というのは、ちょっと気を許すとすぐに恋愛の方へひっぱられてしまうと誰かが書いていたのを読んだ気がするのだが、それともう一つ、物語はちょっと気を許すとすぐに「対戦(対決)」の方へひっぱられてしまうと思う。恋愛も対戦もなしで物語を成立させるのは困難であろうし(しばしば、恋愛と対戦とは別のものではなかったりさえする)、逆に、簡単に恋愛や対戦に着地する物語はバカっぽい。そして、ここで物語とは、まさに「現実」を動かしている力のことでもある。だとすれば、決して安易には物語に「対戦」を持ち込まないということは、そのまま、そのような現実へ向けての働きかけでもあろう。 ●格闘技というもののもつ矛盾。格闘家が実際にやっていることは、ものすごい量の情報を、ものすごい速さで処理して状況判断(駆け引き)をし、それをもとに、ものすごい精度で制御された身体運動へと変換してゆくという、ものすごく複雑かつ高度な行為で

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    bartleby0911 2010/04/23
    自分の作品が、疲弊した知的な労働者のための肘掛け椅子のようなものであってほしいと言ったマティスを、ぼくはすごく尊敬している。