54 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/11(日) 14:48:33.90 ID:4F/KnZp4今の所出てきたスタッフ本の情報 http://dl1.getuploader.com/g/kancolloda2/4015/kancolloda2_4015.jpg http://dl1.getuploader.com/g/kancolloda2/4014/kancolloda2_4014.jpg http://dl1.getuploader.com/g/kancolloda2/4017/kancolloda2_4017.jpg http://dl1.getuploader.com/g/kancolloda2/4016/kancolloda2_4016.jpg http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org4400446.jpg 64 名無
重雷装艦「「北上」「大井」、、、93式酸素魚雷を左右各舷4連装5基20門、両舷合計40門搭載、、、 この二隻だけでも片舷で合計40本の93式酸素魚雷を敵艦隊に発射するシーンは豪快だったでしょうね。この二隻を水雷戦隊に加えると、駆逐艦と合わせて70~80本の魚雷が米艦隊に突進していきます。しかし重雷装艦はその目的にまったく利用されませんでした。太平洋戦争は航空機の戦いだったと言われます。その通りですが、局地的にはかなりの海戦が戦われた。ソロモン海での米艦隊での海戦に使われていたら相当活躍したのではないかと思われますが、わざわざ発射管を一部撤去して輸送作戦に使われたり、人間魚雷「回天」搭載艦にされたりしました。 軽巡を改装したユニークな重雷装艦を一度もその目的にかなった使い方をしなかった。アメリカ艦隊との夜戦での雷撃戦を目指して鍛え抜かれた乗組員たちは、輸送作戦ではさぞかし悔しかったと思います
九三式魚雷(いわゆる酸素魚雷)の登場をきっかけに、同型艦の大井と共に日米両海軍の艦隊決戦に備えて一旦重雷装艦に改装されたが、太平洋戦争開戦後は航空主兵の流れから艦隊決戦は起こらなかったため、重雷装の発射管を一部撤去して高速輸送艦へ改装された。改装後は輸送任務に従事した。1945年には特攻兵器・回天の搭載母艦に改装されたものの、出撃することはなかった。 1919年(大正8年)9月1日佐世保海軍工廠で起工[2]、 1920年(大正9年)7月3日午前9時30分進水[3]、 1921年(大正10年)4月15日竣工した[4]。横須賀鎮守府籍[7]。 1921年4月18日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入[7]。 1922年12月1日、第二水雷戦隊旗艦となる。1924年12月1日、第二水雷戦隊旗艦を軽巡洋艦「五十鈴」に交代する。同日、予備艦となる[7]。1925年12月1日、第一艦隊第一潜水戦隊に編入[7]
重雷装艦(じゅうらいそうかん)とは[1]、太平洋戦争中の日本海軍で建造・運用された艦艇である[2]。なおこれらは新規に建造されたものでは無く既存の艦艇を改装したものであり、重雷装艦という名称も日本海軍が実際に使用したが[注釈 1]、公的に定められていたわけではない。法令上は、改装された艦艇の本来の呼称(この場合は二等巡洋艦=軽巡洋艦)がそのまま使用された。 太平洋戦争開戦前の日本海軍では、もしアメリカと戦争になった場合太平洋を渡って来るアメリカ艦隊を迎え撃つ為、まず潜水艦と航空機で敵戦力を漸減しその後日本近海において主力である戦艦部隊による艦隊決戦(英語版)で決着を付けるというシナリオを立てていた[4]。その際、アメリカ海軍やイギリス海軍の造艦計画に対し1936年(昭和11年)5月に昭和天皇の質問に対し、伏見宮博恭王軍令部総長が大和型戦艦と共に上奏したのが、この重雷装艦である[注釈 2]。
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