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会田誠に関するbk2321866のブックマーク (3)

  • 32:絵描きと「贋金つくり」——会田誠「天才でごめんなさい」展をめぐって(2) - ART iT(アートイット)

    連載での進行中シリーズ〈再説・「爆心地」の芸術〉は今回お休みとなります。 前回はこちら 会田誠「犬(雪月花のうち“雪”)」1998年 パネル、和紙、岩顔料、アクリル絵具、ちぎり絵用の和紙 73x100cm 撮影:宮島径 © AIDA Makoto Courtesy Mizuma Art Gallery 日の美術は、いまなお明治維新における西洋文明導入時の悪しき忘却と反復に陥っている。そこでは、まるで歴史など存在していないかのようだ。会田誠「天才でごめんなさい」展における連作「犬」をめぐる一件なども、その一端だろう。今回の問題については、昨今の「児童ポルノ」の概念規定をめぐる一連の動向と絡めて語られる傾向が強い。が、そもそもこの日で、美術として図画に描かれた女性の裸体図さえ社会的に問題視する傾向が、いったいいつから、どのような経緯を経て広まったのかという、より根的な出自を確かめてお

  • 『会田誠の猟奇性』 永遠に逃れ去る少女たち

    会田誠『巨大フジ隊員VS キングギドラ』(1993)高橋コレクション蔵 ■欲望の過剰 前回の記事で会田誠作品の特徴を示しましたが、予告通り今回は会田氏の残酷描写やスプラッター表現、猟奇性にフォーカスして、その実相に迫りたいと思います。 会田氏が自ら公言している通り、氏の猟奇作品は月岡芳年や絵師金蔵の系譜を引き継いだものです。 以前の記事『無惨絵 日文化の裏地を染める鮮血』ギリシア悲劇との類似性でも言及しましたが、基的に無惨絵はギリシア悲劇と同じく「生命の過剰」が引き起こしたものと考えられます。 さらに次の画像からも分かる通り、無惨絵の兇暴なエネルギーは、老若男女区別なく被害対象として巻き込む、盲目的で無差別的なものです。 ある意味では火山の噴火などと同じような、自然現象に近いエネルギーの充溢・炸裂と見なすことができるでしょう。 左:丸尾末廣『新英名二十八衆句:フリッツ・ハールマン』右:

  • 絵画的保守主義と結合の美学──「会田誠展:天才でごめんなさい」レビュー:フォーカス|美術館・アート情報 artscape

    おおよそ初期作品とは、その作家がのちに展開することになる方法論をあらかじめ開示するものである。会田誠の場合、実質的なデビュー作となった《巨大フジ隊員VSキングギドラ》(1993)がそれに相当するだろう。では、会田誠における「方法」とはなにか。 1991年に制作された《あぜ道》という作品がある。あぜ道と女子高生の頭部の髪の分け目が一につながり、画面を真ん中から分断する。あぜ道のモチーフになっているのは、東山魁夷の《道》(1950)であり、女子高生はのちに会田が執拗に描くことになる対象である。ここでデモンストレートされているのは、来出会うはずのない事象同士の、絵画的な結合の仕方だ。髪の分け目はあぜ道となり、近代日画と女子高生というかけ離れた対象を「結合」する。会田誠の絵画に一貫するのは、このような、けっして出会うはずのない複数の事象を、絵画的な空間表現を通じて接続するという主題系である。

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