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ブックマーク / t-s.hatenablog.com (8)

  • 「天国へ行く方法」改 - てぃーえすのメモ帳

    誰の事かは言わなくてもおわかりですよね。 必要なものは『わたしの官位』である。 『侍中・守尚書令』 我が官位の先にあるものこそが曹司空がさらに先に進むべき道なのである。 必要なものは信頼できる故吏である。 彼らは欲望にコントロールされる人間でなくてはならない。 権力欲や名誉欲・金欲・色欲のある人間で、 彼らは漢の法よりも曹司空の恩賞を尊ぶ人間でなくてはならない。 いつかそのような者に、この私が出会えるだろうか? 必要なものは『謀反を起こした36名以上の魂』である。 謀反人の魂には 強い力(パワー)があるからである。 必要なものは 『14の言葉』である。 「らせん階段」「カブト虫」「殷墟の街」「五斗米のカルト」「カブト虫」 「長安への道」「カブト虫」「特異点」「ちょっと」「天子(エンペラー)」 「紫陽花」「カブト虫」「特異点」「秘密の皇帝」 わたし自身を忘れないように、 この言葉をわたしへの

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  • 漢の漢たちを語る6「俺はまだ本気出してないだけ」:公孫賀 - てぃーえすのメモ帳

    前漢武帝の頃の将軍に公孫賀という人物がいる。 彼は祖父が将軍となって戦功を立てて列侯になったことのあるという家の出で、かの衛青の姉をとしていた。 衛青の姉ということは皇后の姉ということであるので、彼は武人として出世し、同時に皇帝の御者兼全国の国家管理馬匹専門大臣である太僕に抜擢された。 太僕(公孫)賀、三十三年遷。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、建元六年) この数字は数えてみると誤りではない。 彼は時に将軍となりながらずっと太僕に在任し、三十三年務めつづけたようなのだ。 自公孫弘後、丞相李蔡・嚴青翟・趙周三人比坐事死。石慶雖以謹得終、然數被譴。 初(公孫)賀引拜為丞相、不受印綬、頓首涕泣曰「臣邊鄙、以鞍馬騎射為官、材誠不任宰相。」上與左右見賀悲哀、感動下泣、曰「扶起丞相。」賀不肯起、上乃起去、賀不得已拜。出、左右問其故、賀曰「主上賢明、臣不足以稱、恐負重責、從是殆矣。」 (『漢書』

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  • 孔丘先生の災難 - てぃーえすのメモ帳

    墨子曰、孔子厄於蔡陳之間、子路烹豚、孔子不問肉之所由來而。剥人衣以沽酒、孔子不問酒之所由來而飲之。 詰之曰、所謂厄者、沽買無處、藜羹不粒、乏七日。若烹豚飲酒、則何言乎厄。斯不然矣。且子路爲人、勇於見義、縦有豚酒、不以義不取之、可知也。又何問焉。 (『孔叢子』詰墨) 孔子こと我らが孔丘先生が晩年の旅烏の時に陳と蔡の間で苦しい目に遭ったというのは『論語』『史記』などからわかることであるが、その際にあったことについて孔丘先生を非難することで有名な墨子一派は、こう言っていたらしい(『墨子』に見える)。 「あの孔なんとか先生は、弟子の子路が入手経路不明の豚を手に入れるとそのことには目をふさいでその豚をった。子路が追いはぎして得た金で買った酒を持ってくると、そのことには耳をふさいでその酒を飲んだ」 孔丘先生の子孫である孔鮒さんはそれに対し「あの時は酒も事もままならなかったんだから、豚肉や酒があ

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    bohemianway
    bohemianway 2012/12/03
    吉見とばっちりw
  • 「荀文若さんへ」曹丞相コメント全文 - てぃーえすのメモ帳

    荀文若さんへ 漢の皇室、朝臣、関係者を傷つける密告が相次いでいます。たくさんの暴露が行われ、漢王朝関係者を混乱させ、皇室、朝臣を苦しませています。私は丞相という立場で心を痛めてきました。 こんなことがなぜ続くのか。荀文若さんのほかに、いったいだれがいるのか。 今回は、皇后のことで良かったと思っています。 漢王朝の低迷期に荀文若さんと会い、同じ釜の飯をい、同じ目的に向かって、悔しい時も、うれしい時も気で涙を流してきました。名士に愛され、強くある漢王朝をめざし、袁氏3兄弟撃破、丞相就任も成し遂げました。 漢王朝を育て、守り、築いてきた偉大な先輩方がたくさんいられます。未来へ夢をつなぎ、漢王朝の発展を願っている方もたくさんいられます。荀文若さんもその一人だと信じます。 漢王朝の一員だったことを誇りとして、黄泉路を歩んでください。 もう間に合いません。 曹孟徳 つ空箱 http://d.hat

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    bohemianway 2012/06/22
    うは
  • 禁じる文帝切れる明帝 - てぃーえすのメモ帳

    青龍二年、私通賓客、為有司所奏、賜(趙王)幹璽書誡誨之曰・・・(中略)・・・高祖踐阼、祗慎萬機、申著諸侯不朝之令。・・・ (『三国志』巻二十、趙王幹伝) 魏の高祖こと文帝曹丕は、諸侯に対して皇帝の元へ入朝することを原則禁止したらしい。 ちなみにこの璽書の続きでは明帝曹叡様は「オヤジにハブられてたてめえたちを俺様が特に入朝を命じたのにおまいらは諸侯同士で悪だくみですかそうですか」とブチ切れ金剛だった模様。

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    bohemianway 2012/06/05
    ブチ切れ金剛だった模様
  • 名馬 - てぃーえすのメモ帳

    文帝自代還。有良馬九匹。皆天下之駿馬也。一名浮雲。一名赤電。一名絶群。一名逸驃。一名紫鷰騮。一名䖝螭驄。一名龍子。一名麟駒。一名絶塵。號為九逸。有來宣能御。代王號為王良。倶還代邸。 (『西京雑記』巻二) 漢の文帝は名馬集めが趣味だったのかもしれない。 文帝は代王時代に天下の名馬九匹を所有していたという。 「浮雲」「赤電」「絶群」「逸驃」「紫鷰騮」「䖝螭驄」「龍子」「麟駒」「絶塵」というそれぞれ少し中二病チックなカッコいい名前を付けられていた。 三国時代、「赤兎」「絶影」「馬超」など、名馬にはしばしば名前が付いていたのは周知の事実だが、これは少なくとも前漢以来の伝統だったらしい。

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    bohemianway 2011/08/06
    最後www
  • 究明 - てぃーえすのメモ帳

    文帝即王位、誅丁儀・丁廙并其男口。 (『三国志』巻十九、陳思王植伝) 魏の文帝曹丕は魏王になると後継争いのライバル曹植の味方をしていた丁儀・丁廙兄弟をその一家の男性もろとも誅殺した。 或云丁儀・丁廙有盛名於魏、(陳)壽謂其子曰「可覓千斛米見與、當為尊公作佳傳。」丁不與之、竟不為立傳。 (『晋書』巻八十二、陳寿伝) その丁儀兄弟といえば、世の三国志ッ娘の間ではこの陳寿との絡みで有名である。 陳寿は丁儀兄弟の子に対し、「僕と契約して君のパパのために良い列伝を残してあげてよ!」と持ちかけた。 しかしその丁氏の子はそれを断ったので、高名だった丁儀兄弟の列伝は陳寿『三国志』に収録されていないのだ、と。 この件については、「丁兄弟は一家挙げて殺されているのに、どうしてその子に賄賂もちかけることができるんだ?」と反論されたり、「俺の陳寿がこんなにあくどいわけがない」と非難されたりして、「ハハッこれだから

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    bohemianway 2011/04/21
    お、これは中々気になる。正史入手したしちょっと調べてみようかな。
  • 不臣の礼 - てぃーえすのメモ帳

    初、匈奴呼韓邪單于來朝、詔公卿議其儀、丞相霸・御史大夫定國議曰「聖王之制、施紱行禮、先京師而後諸夏、先諸夏而後夷狄。詩云『率禮不越、遂視既發。相土烈烈、海外有截。』陛下聖紱充塞天地、光被四表、匈奴單于郷風慕化、奉珍朝賀、自古未之有也。其禮儀宜如諸侯王、位次在下。」 (蕭)望之以為「單于非正朔所加、故稱敵國、宜待以不臣之禮、位在諸侯王上。外夷稽首稱藩、中國讓而不臣、此則羈縻之誼、謙亨之福也。書曰『戎狄荒服』、言其來服、荒忽亡常。如使匈奴後嗣卒有鳥竄鼠伏、闕於朝享、不為畔臣。信讓行乎蠻貉、福祚流于亡窮、萬世之長策也。」 天子采之、下詔曰「蓋聞五帝三王教化所不施、不及以政。今匈奴單于稱北藩、朝正朔、朕之不逮、徳不能弘覆。其以客禮待之、令單于位在諸侯王上、贊謁稱臣而不名。」 (『漢書』巻七十八、蕭望之伝) 前漢宣帝の時、匈奴は後継争いにより国が分裂し、勝ち残った単于も国力が低下し漢への臣従を余儀な

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