MIYADAI.com Blog (Archive) > 究極の名作、グザヴィエ・ドラン『たかが世界の終わり』について、論じました « 3ヶ月前に書いた『この世界の片隅に』評をアップします | 来る12月17日(木)二村ヒトシ監督とのトークイベントを開催。共著刊行後3回目です » グザヴィエ・ドランの新作は、家族の言語的歪みが<クソ社会>を生成する事実を発見した 【<場>への埋め込み=<妄想>の共有への信頼】 ■グザヴィエ・ドラン監督『たかが世界の終わり』(2016)を見ていたら吐き気がしてきた。援交女子高生らを取材していた二十年以上前、家族の葛藤話を多数聞いたが、その頃の気分を思い出した。そういえば園子温監督『紀子の食卓』(2006)を見た時もそうだった。 ■今回のキーワードも前回と同じ<妄想>だ。前回は片渕須直監督『この世界の片隅に』(2016)を論じたが、少し復習したい。かつて人々は