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  • 河瀬直美監督ドキュメント映画『東京2020オリンピックSIDE:B』には、なぜ「最も重要な人物」が1秒も映らないのかという話|CDBと七紙草子

    河瀬直美監督ドキュメント映画『東京2020オリンピックSIDE:B』には、なぜ「最も重要な人物」が1秒も映らないのかという話 河瀬直美監督が東京五輪ドキュメンタリーを撮る、と報じられた時、左派からよく引き合いに出されたのはベルリン五輪におけるレニ・リーフェンシュタールだった。要はリーフェンシュタールがナチス政権にそうしたような、東京五輪を美化するプロパガンダになるのではないかという危惧である。 先月に公開された『東京2020オリンピックSIDE:A』を見た時、その心配は杞憂に終わったと感じた。そこにあるのは良くも悪くも監督のメッセージが脱主体化された、東京五輪に参加する各国の選手たちの肖像、さまざまな思いをつないだグラフィティ的な作品になっていたからだ。そこにあるのは良質ではあるが凡庸な記録映画であって、リーフェンシュタールの作品のような強烈な求心力やプロパガンダ性はない。 しかし、である

    河瀬直美監督ドキュメント映画『東京2020オリンピックSIDE:B』には、なぜ「最も重要な人物」が1秒も映らないのかという話|CDBと七紙草子
  • 20年前、森喜朗批判のあとにやってきたもの|CDBと七紙草子

    当たり前の話だが、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長、森喜朗氏による発言が女性差別であることは論を待たないし、国内外からの批判もまったく当然のことだと思う。だがちょうど20年前、2000−2001年の歴史を振り返ると、不吉な予感に襲われるのも事実だ。ちょうど20年前にも、これとそっくりな風景があったから。 森喜朗には不思議な力がある。それは「負のポピュリズム」とでも言うべき奇妙な力、大衆をわかりやすくムカつかせ、まとめる力である。例えば不思議なことだが、麻生太郎や石原慎太郎がどれほど暴言を繰り返しても、こういう現象は起こらないのだ。彼らの暴言、傲慢さに自己同一化する人々が現れ、タカ派の政治性を形成し、それは時に多数を占め、「なぜあんな男を支持するのか」とリベラルな知識人にため息をつかせる。アメリカトランプや、ルペンなど各国の極右政治家などもこのタイプに属すると思う。

    20年前、森喜朗批判のあとにやってきたもの|CDBと七紙草子
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