大相撲で初土俵から通算1630回連続出場となる秋場所2日目、土俵入り前に音羽山親方(右)と記念撮影する玉鷲=9日、東京・両国国技館 大相撲の東前頭10枚目の玉鷲(39)=本名玉鷲一朗、モンゴル出身、片男波部屋=が秋場所(両国国技館)2日目の9日、初土俵から通算1630回連続出場となり、青葉城の史上1位記録に並んだ。
大相撲で初土俵から通算1630回連続出場となる秋場所2日目、土俵入り前に音羽山親方(右)と記念撮影する玉鷲=9日、東京・両国国技館 大相撲の東前頭10枚目の玉鷲(39)=本名玉鷲一朗、モンゴル出身、片男波部屋=が秋場所(両国国技館)2日目の9日、初土俵から通算1630回連続出場となり、青葉城の史上1位記録に並んだ。
日大で学生横綱に輝いた、初土俵から2場所目のホープ、西幕下29枚目の草野(23=伊勢ケ浜)が、敗れた取組後に一時は意識不明となり、担架で土俵を離れ、救急車で名古屋市内の病院に緊急搬送された。 西幕下30枚目の西ノ龍との1敗対決は、1度は草野が押し込んだが押し返され、ボクシングのフックのような、相手の左からの強烈な張り手を浴びた。この時点で意識を失ったとみられたが、勢いよく前に出てきた相手の頭がぶつかり、そのままあおむけになる形で、後頭部を打ちつけた。 取組後はピクリとも動かず、土俵下に控えていた救急救命士が駆けつけて対応した。それでも草野は動かず、駆けつけた親方衆や若者頭らによって約5分後、担架で土俵を後にした。さらに救急車で名古屋市内の病院に緊急搬送された。 草野のもとにいち早く駆けつけた、伊勢ケ浜部屋付きの宮城野親方(元横綱白鵬)が、意識を取り戻すために声を懸けたり、施していたテーピン
元横綱・貴乃花氏 終生のライバル・曙太郎さんの急死を悼む「百折不撓の人生観だったと思います」 7枚 元横綱の曙太郎さんが、4月上旬に心不全のため死去していたことが11日、分かった。曙さんとライバル関係にあり、ともに一時代を築いた元横綱の貴乃花光司氏が同日、所属事務所を通じてコメントを発表し、曙さんの急逝を悼んだ。 貴乃花氏は「哀悼の意を表します。数々の闘いの思い出がありますが、相撲教習所に半年間通った頃の稽古の思い出が出てきます。土俵は3つあり 130名ほどで A土俵 B、Cと分かれます 私たちは、A土俵において猛々しく取組に励みました」と思い出を明かした。 さらに「ハワイ諸島から来日し今日に至るまで日本の文化を感じて幾多の苦労があったかと思います。ハワイ巡業の際には地元ご家族も来ており、穏和な挨拶を交わしたことは新しい記憶のように思い出しています」と回想。「百折不撓の人生観だったと思いま
元横綱・貴乃花の貴乃花光司さんは同じ時期に角界入りした曙太郎さんが亡くなったことについて所属事務所を通じてコメントを出し「数々の闘いの思い出がありますが、相撲教習所に半年間通った頃の稽古の思い出が出てきます。ハワイから来日し、日本の文化を感じて幾多の苦労があったかと思います」と振り返りました。 そして「ハワイ巡業の際には地元ご家族も来ており、穏和な挨拶を交わしたことは新しい記憶のように思い出しています。百折不撓の人生観だったと思いますが、これからは身を楽にして安らかに」としています。 曙太郎さんが亡くなったことについて、同じ時期に角界入りした元横綱 若乃花の花田虎上さんは「曙の訃報に際し」というタイトルでみずからのブログを更新し「ライバルであり友であり、苦楽をともにした仲間が旅立ちました。現在、曙の訃報に際し、コメントを求められていますが、あまりのショックにお話できるような状態ではありませ
03年11月の朝、私は都内のあるジムの前に立っていた。当時は格闘技担当。K-1転向を表明した曙さんの極秘練習を取材するためだった。 数日前からジムの入り口で曙さんに名刺を差し出し、話しかけていたが、彼は目を合わせようとせず、返事もなかった。ところが急に冷え込んだこの日は、私の姿を見つけると彼の方から声をかけてきた。 「こんな所に立っていたら風邪ひくぜ」。 思いがけない優しい笑顔に私は意表を突かれた。その後、彼の計らいでジムに入れてもらった。その温かさに感激する一方、私は何となく彼が格闘技には向いていない気がした。 年寄株を取得できないことが転向の要因だったが、彼はもともと格闘技に強い興味を持っていた。 「張り手も自分には効かない。パンチを受けても大丈夫」。 自信もあった。ただ格闘家としては素人。プロボクシングの元世界ヘビー級王者とのスパーリングではパンチが1発も当たらず、血だるまにされた。
宮城野部屋の処遇 浅香山親方が執行部に伊勢ヶ浜一門の方向性を提出「いろいろな人の人生が懸かっている」 宮城野部屋の消滅は「絶対にない」 3枚 北青鵬(引退)の暴行問題に揺れる宮城野部屋の今後の処遇について、同部屋が所属する伊勢ヶ浜一門の浅香山親方(元大関魁皇)が10日、日本相撲協会の執行部に一門としての提案を提出した。部屋の一時的な閉鎖や今後の各力士の所属先を含めて、5つほどの案が出されたもよう。同親方は「こういうものでいいですか、ということで出させてもらった。これから(執行部に)会議に諮ってもらうが、どうなるかは分からない」と今後の見通しについて語った。 宮城野部屋は師匠の宮城野親方(元横綱白鵬)が監督責任を問われ、今場所は師匠代行に玉垣親方(元小結智乃花)を立てて本場所に臨んでいる。春場所後に一門として部屋のあり方を決めることになり、話し合いを進めてきた。この日、話し合いでまとめた内容
大相撲の「柏鵬時代」に活躍した元関脇明武谷の明歩谷清(みょうぶだに・きよし)さんが10日午前2時、老衰のため死去した。86歳だった。北海道釧路市出身。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。 1954年春場所初土俵で高島部屋や宮城野部屋に所属。190センチ近い長身を生かしたつりを得意とし、「起重機」の異名を取った。筋骨隆々の体、彫りの深い顔立ちで人気を誇り、61年秋場所では敗れながらも大関時代の大鵬、柏戸と三つどもえの優勝決定戦を闘った。 幕内に58場所在位し、三賞は殊勲賞、敢闘賞を4度ずつ受賞。69年九州場所限りで現役引退し、年寄「中村」を襲名。77年1月に角界を去った。
大相撲の元横綱朝青龍のドルゴルスレン・ダグワドルジ氏(43)が、亡き師匠との別れをしのんだ。 5日、都内のホテルで行われた元大関朝潮で先代高砂親方の長岡末弘さんのお別れの会に出席。現役時代には所属した高砂部屋時代で師匠と弟子との間で相撲に打ち込み、横綱まで上り詰めた。そんな日々を思い返しながら、「弟子として好きか嫌いかは別として、最後の別れなんで。人としてやることをやらないといけない」と最後の別れを惜しんだ。 この日モンゴルへ帰国する前に、多忙の合間を縫って師匠との最後の別れをするため出席。現役時代を振り返って「師匠が自分の地位を越せる弟子が欲しいとよく言っていた。師匠の夢をかなえられた」。引退後は疎遠となっていたと言い、「弟子として何回もトライしたが、残念ながら会えなかった。僕は会いたかったですね。他の人がたくさん邪魔をしたけど、握手して別れたかった。ちゃんと最後に話したかった」と心残り
突っ張り一本やりの気っぷのいい相撲と、甘いマスクで一世を風靡(ふうび)した元関脇寺尾の錣山親方(本名・福薗好文)が17日、東京都内の病院で死去した。60歳だった。父が名関脇、3兄弟も関取で逆鉾との兄弟同時関脇も達成。通算出場など、数々の出場回数記録で歴代10傑入りするなど、116キロの細身の体ながら“鉄人”の異名も誇った。以前から不整脈など心臓に持病を抱えていた。先月の九州場所も全休して約2カ月間入院。その後退院し、復帰に向けてリハビリを続けてきたが、体調が急変した。 錣山親方の危篤の報を受け、弟子の小結阿炎(29)らは急きょ、冬巡業が開催されていた関西から帰京した。入院していた都内の病院で錣山親方は、関係者らにみとられたようだ。先月の九州場所も不整脈で入院し休場していた。昨年九州場所で愛弟子の阿炎が、錣山部屋史上初の幕内優勝を果たした時も心臓の病気で入院中だった。「心臓で入院しているのに
大相撲の元関脇寺尾で筋肉質の体と甘いマスクで人気を誇った錣山親方(本名福薗好文=ふくぞの・よしふみ)が死去したことが17日、日本相撲協会関係者の話で分かった。60歳だった。鹿児島県出身。最近は持病の不整脈の影響もあり、入退院を繰り返していた。 父は元井筒親方(元関脇鶴ケ嶺)で、母の死をきっかけに入門を決意。1979年名古屋場所初土俵で、長兄の元十両鶴嶺山、次兄の元関脇逆鉾(いずれも故人)とともに「井筒3兄弟」として人気を博した。同じ昭和38(63)年生まれの北勝海、双羽黒、小錦らと「花のサンパチ組」と呼ばれ、昭和から平成の土俵を盛り上げた。 細身ながら、きっぷのいい突き、押しを武器に活躍し、39歳だった2002年秋場所限りで現役引退した。三役在位は13場所で、幕内在位は史上6位の93場所。通算出場は1795回で同4位、通算勝利は860勝で同10位だった。三賞は殊勲賞3回、敢闘賞3回、技能賞
元大関・魁皇の浅香山親方(50歳)のロングインタビュー第2回。長きにわたって大関として君臨し、多くの横綱と対峙してきた魁皇が選ぶ“最強の力士”はいったい誰なのか。武双山や千代大海といったライバルとの友情秘話に加えて、「酒は2升からだ!」と豪語していたという現役時代の“酒豪伝説”についても語ってくれた。(全3回の2回目/#1、#3へ) 「酒は2升からだ!」若き日の酒豪伝説 ――親方は入門4年後の1992年初場所で新十両に昇進して本名の古賀から「魁皇」に改名。当時19歳でした。しかし、続く3月の春場所中に左足親指を脱臼骨折して休場。手術もされました。当時はどんな心境でしたか。 初めての大ケガだったので、ショックでしたね。そのときはもうダメかなと思ったし、病院から国技館が見えるのも憂鬱でした。みんなが元気に相撲を取っているときに、自分は何をしているんだろう、情けないなって。1カ月半から2カ月くら
現役時代、類まれな怪力を生かした豪快な相撲で人気を博した元大関・魁皇の浅香山親方(50歳)。歴代2位の通算1047勝、歴代1位タイの大関在位65場所という偉大な記録を持つ名大関だが、入門前は「こんな世界に入りたくない!」と角界入りに消極的だったことはあまり知られていない。“流され体質で相撲嫌い”だった怪力少年は、いかにして相撲に開眼し、「花の六三組」に名を連ねることになったのか。ロングインタビューで「心優しき剛腕」の実像を繙いていく。(全3回の1回目/#2、#3へ) 「人前で裸になるなんて…すごくイヤだった」 ――福岡県直方市出身の浅香山親方ですが、幼少期はどんな子どもでしたか。やはり小さい頃から体を動かすのが好きだったのでしょうか。 家が山のほうだったので、外で遊ぶことが多かったですね。出ていったら遊びっぱなしで、夕方遅くまで帰ってこないなんてこともよくありました。小学2、3年生の頃から
「怪物」と呼ばれた男が電撃引退した。大相撲で幕内優勝1度、最高位関脇で西前頭13枚目の逸ノ城(30=湊)が4日、10年間の土俵人生に別れを告げた。 東京・両国国技館で師匠の湊親方(元前頭湊富士)とともに会見し、急の決断を発表。持病の腰痛が深刻化したことを理由とした。親方などで残らず日本協会を離れるが、今後の人生に関しては「まだ考えが決まらない」と明言できなかった。 ◇ ◇ ◇ 十両だったとはいえ、先場所14勝1敗から、わずか1カ月余りで引退-。急転直下だ。確かに逸ノ城は、随所で痛みを隠し切れないしぐさを見せていた。2月の花相撲後には、帰り際、柵越しに取材に応じたものの真っすぐ立っていられない。柵に手を掛け、しりを突き出して腰を伸ばしたり、かかとの上げ下げを繰り返したり。落ち着きない行動の連続は、全て腰の痛みに起因する。この日も「歩くのも、横になるのもかなりつらい」と、深刻な状態だと
引退記者会見で花束を受け取った逸ノ城(左)と湊親方=東京・両国国技館で2023年5月4日、滝沢一誠撮影 将来の横綱候補と騒がれた大器にとってはあまりにも突然で、残念な身の引き方になった。逸ノ城は4日、急きょ開いた引退記者会見に、師匠の湊親方(元前頭・湊富士)とともに臨んだ。腰痛の悪化が引退の理由とされたが、終始硬かった師弟の表情に違和感を覚えた。 思い出されるのは2022年11月、逸ノ城による親方夫人への「暴力」などの疑いが浮上したことだ。関係者によると、酒に酔った逸ノ城の体が、なだめようとした親方夫人に当たってしまったとされる。日本相撲協会が事情聴取した過程で、逸ノ城は新型コロナウイルス感染対策のガイドラインに違反した外出が発覚し、1場所出場停止処分を受けた。 処分明けの春場所で十両優勝し、今月1日に発表された夏場所の番付で2場所ぶりに幕内に戻ったばかり。奮起が期待される中での引退発表と
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