山尾志桜里・立憲民主党衆院議員(発言録) 安倍政権の最大の特徴は、書いていないことは全部破るということ。国会で大事なテーマは、20、30、40時間はせめてかけて採決するとか、国会の議論は与党よりも野党に大きく時間を配分するとか、今までは守られてきたけど、書いてないので破りますよと。そんなのただの慣例でしょって。 だから、保守と言いながら革命的な政権だと思う。書いていないけど、こういうルールは大事だと国会で積み上げてきたもの、書いてないけど、専守防衛の解釈は大事だと国会以外も含めた憲法学者、国民との合意、そういうものも書いてなきゃ破ります、ただの慣例でしょって。そういう政権だ。 積み上げた知恵を大事にしていくことを全く思わない政権という意味で、全く保守的ではない政権だと思う。(名古屋市内の講演で)
景子夫人(54)との離婚が明らかになった元貴乃花親方の花田光司氏(46)が27日、日本テレビ系「スッキリ」に生出演して胸中を語った。 一問一答は以下。 -貴景勝について? 花田氏 よくやりました。テレビで見ていた。そろそろ優勝するかなと思っていた。下半身が安定していた。当たりあって、本来の自分の力を出していた。それができるというのは、これまでの鍛錬。いい感じで勝てている。優勝するだろうと思っていた。貴景勝とは小学4年の時に会っている。背丈は大きくないが、四股を踏んだり、当たりが良くて。お父さんには連絡していない。退いた身ですから。 -貴景勝の今後は? 花田氏 この優勝は序章でしかない。これから本領発揮してくれるだろう。まだ準備運動ですから。優勝はもちろんですが、戦い続ける姿勢がこれからますます出てくる。 -貴景勝が相手に失礼になるからと笑顔を封印したが? 花田氏 私の教えというより本来の相
百田尚樹 @hyakutanaoki 「日本保守党」代表(仮)かつては小説家でしたが、最近はYouTuberになりました (m.youtube.com/channel/UC3FKw… ) 。でも、ニコ生の「百田尚樹チャンネル」が本場所です(bit.ly/2NgL6pg) 百田尚樹 @hyakutanaoki 『日本国紀』は、日本を褒め称えただけの本ではありません。 日本と日本人の素晴らしさを書いていますが、ダメなところや情けないところも書いています。書いていて苦しい時もありました。 しかし読み終えた後には、誰もが、日本に誇りを感じ、日本人であることに無上の喜びを覚えると信じています。 2018-10-18 16:22:23
著者:椹木 野衣出版社:美術出版社装丁:単行本(349ページ)発売日:2005-01-16 ISBN-10:4568201748 ISBN-13:978-4568201741 内容紹介: 戦前に計画された紀元二六〇〇年博と1970年の大阪万博EXPO'70を結ぶ、都市計画家、建築家、そして前衛芸術家たちの、終わりなき「未来」への夢の連鎖のなかに「環境」の起源をたどるタイムトラベル的異色長編評論。 明るく薄っぺらな「晴れ舞台」を徹底解剖わたしの勤務先は、大阪万博の跡地の外れにある。いまは緑がずいぶん深くなり、高速のアスファルト道も周囲にすっかり溶け込んでいる。が、生活臭はまったくない。祭りの記憶もとっくに消え、それなりに美しく穏やかな風景、だが底知れず退屈な風景が、だらんとひろがる。 全共闘運動や反体制デモ、ヒッピーやアングラ芸術で都市がなにやらざわついているとき、竹林を大きく削ったこの人工
彼女を知ったのは、Twitterのタイムライン上。 美人がひとりで「サラダ取り分け禁止委員会」を発足したらしいという情報を目にして、その美人にも、謎の委員会にもすこぶる興味が湧いた。 女優志望のマルチクリエイター、「はましゃか」のことである。 これだけキャラクターが立つ時代、アプローチの方法は自在だ。 “大体” の概要をつかみ、自分が思ったのはただそれだけだった。 ちなみに、このインタビューを終える頃、当初の自分の考えと捉えかたの「あさはかさ」を、心底恥じることとなる。インパクトのある言葉を「わざわざ」選ぶ彼女の真意は、自分が思っていたところよりも、ずっと深いところに存在してたからだ。 5月某日。新宿のルノアールで、彼女に話を訊いた。 ——いきなり聞いちゃいます。「サラダ取り分け禁止委員会」ってなんですか? えっと、発足の経緯を説明しますね。飲み会があったんですよ。で、そこに、なんか「俺、
鴻臚井(こうろせい)は、唐の大鴻臚崔忻が、渤海の現地民族・靺鞨のリーダーだった大祚栄を渤海郡王に冊封するため713年に派遣された帰途、翌714年に旅順に井戸を掘り、その井戸側に彫った記念碑[1]。 内容[編集] 鴻臚井 唐が渤海王を渤海郡王に冊封した事実を記録しているため、中国の学界は唐と渤海が君臣関係を結んだことを立証する決定的な遺物とみている[2]。 渤海への冊封使が「靺鞨使」という称号を称しており、唐が渤海を「高句麗」ではなく「靺羯(靺鞨)」と認識していることが分かる。 騒動[編集] 鴻臚井は、高さ1.8m、重さ90tの天然石であり、1908年に日本海軍が日露戦争の戦利品として没収、1911年に代替で跡地に「功労碑」が設置された[1]。現在、鴻臚井は宮内庁が所蔵している。2015年、「中国民間対日賠償請求連合会」の王錦思らが皇居を訪れ、警備員に宮内庁あての「106年前に日本が略奪した
4年前、2月20日~24日の4泊5日の日程で、神社本庁の関連団体である神政連の研修で、皇居勤労奉仕に参加させていただきましたが、その2週間後に未曾有の東日本大震災が起きるとは予想だにしませんでした。 なお、下の5枚の画像のみクリックすると拡大します!。 その時、広島県青年神職会皇居勤労奉仕団にOBとして参加されていた、アメンバーで呉市のあーうんさんこと高尾神社宮司さんとばったり初顔合わせをしました!。 あーうんさん(右)は、私とは同い年です。 これは、石川県神道青年会の60周年記念行事の一環として募集を募り参加された当県の奉仕団で、3日目の朝合流しました。 青年会員、神社庁役員、県女性神職会の方々が参加されたので、桔梗門前で一緒に記念撮影をおこないましたが、昔のお嬢さん方に囲まれて前列中央に写っているのが私でございみす!。 勤労奉仕の場合、皇居内はカメラでの撮影や携帯電話の持ち込みは原則禁
戦後封印され、国民の記憶から消えてしまった皇居の靖国「御府」。戦没者の慰霊・顕彰と天皇が結びついていた「かたち」の知られざる一端を明らかにする、8月刊行ちくま新書『天皇の戦争宝庫』の序章を公開します。 存在が隠されている皇居の一角 近年、皇居は次々と開放されている。 二〇一四年に天皇陛下の傘寿(八十歳)を記念して、宮内庁庁舎前から北の丸公園側の乾門までの乾通りが一般公開され、春の桜、秋の紅葉のシーズンに二十―五十万人もの人々が皇居内に入ることができるようになった。 従来から宮殿前や二重橋などを巡る皇居の一般参観が行われていたが、事前申し込みが必要で平日のみだった。これが一六年六月から土曜日も実施され、当日受付でも可となった。一九六八年から一般開放されている東御苑は外国人観光客で日々にぎわっている。 皇居の深奥、吹上御苑にも一般人が足を踏み入れることができる。抽選による少人数とはいえ、毎年春
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く