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2008年5月27日のブックマーク (3件)

  • さびしさの運用について - Mellow My Mind

    「このさびしさをどしたらいいの」ということを延々考えて、人生単位で見てもそれはそれは長い時間を浪費しました。その中でまず気付いたことは「人はさびしいとおかしくなる」ということでした。ひっくり返すと、人がおかしなことやってるときは、だいたいさびしいんだよな。さびしさを動機にして人や自分を裁いても、よけいさびしくなるばかり。なにかを裁くということはなにかを切り捨てることだ。一度切り捨てられたものは時間が止まってしまう。もうそこからは何もうまれないのでした。さびしいのに、いろんなものをどんどん切り捨てて、自分さえも許せなくなって、狭く、小さく、よけいさびしさを募らせるばかり。おかしなことだ。さびしさとは無縁に見える、幸福そうなあの人と、わたしは何が違うんだろう。考えればなにもかも違うように見えたし、でも当のところはどこがどう違うのかよくわからない。ただ、自分がさびしさにふりまわされていることだ

  • いつかここからいなくなる - Mellow My Mind

    さよならだけが人生さ、というのはいささか気障すぎるぜ、と思っていたけれど、歳を重ねているうちに、人生ていろんなものと上手にお別れするレッスンのようなものだという気がしてきたのであった。上手にお別れするのに必要なことはなんだ。それは何よりも、しっかり出会うことだ。とわたしは思う。そう考えるといろんなことが思ったよりこわくなくなるんじゃよね。別れをおそれて出会いを避けるなんてまるであべこべなはなしでした。ちゃんと出会ってないから引きはがされるときに念が残ったり(ざんねーん)後で悔やんだり(こうかーい)するんよね。だからってしがみついてしまうのもよろしくなくて。いま自分がいる席は時期がきたらだれかに明け渡されるべきものだ。そのときがきたら気持ちよく明け渡して、わたしはまた新しいものを見にいくのでげす。自分の時間を止めていた時期が長かったせいか、そういうことに気付くとうわーってなりますネー。春だし

    canaki
    canaki 2008/05/27
    「いま自分がいる席は時期がきたらだれかに明け渡されるべきものだ。そのときがきたら気持ちよく明け渡して、わたしはまた新しいものを見にいくのでげす。」
  • 感情を加工するということ - Mellow My Mind

    感情を加工するくせがついてしまうとどんどんさびしくなっていくので気をつけようの巻。その最たる例が「死にたい」だと思う。シリアスかつカジュアルに「死にたい」と口にする人は、でも、「死ぬのちょーたのしみーッ! 死にたくて死にたくてたまんない! どうやって死のうか迷っちゃうなー! あー早く死にたい!」という感じにはあんまりならない。だいたいの場合「死にたい」は皮をはいでいくと「もっと楽しく生きたい」「もっと充実感をもって生きたい」になる。「もっと楽しく生きたい」→ だけどそれは自分には無理ぽい → だったら「死にたい」、そういうことだと思うんだけど、これが感情の加工です。出だしから「死にたい」だったら「死ぬのちょーたのしみーッ!」ってなるはずなんだよね。そうならないってのは、欲望と直結してないってことで、それはつまり加工された感情ってことです。「死にたい」という人には加工のプロセスが当たり前すぎ