投稿日:2010-11-24 伊藤博文と山縣有朋。ともに長州閥の頂点、元老筆頭である。 しかし、山縣は伊藤が死ぬまで頭が上がらなかった。 明治の元老会議の史料を見ても、山縣を含めた他の元老全員が反対しても、伊藤の意見が通るのである。 俗に、伊藤は派閥を作らず、山縣は面倒見のよさで巨大派閥を作り上げたと言われる。 勢力比で言えば、百人中九十八人くらいは山縣の子分である。 晩年は、伊藤の秘書としていっしょに帝国憲法を起草した最側近の伊東巳代治すら山縣の下に走った。 しかし、伊藤は「子分から弟分の子分になりたがるのは物好きだな」くらいにしか思わなかった。年上の山縣の方が、永遠に弟分なのである。 山縣が巨大派閥の力を背景に伊藤に圧力をかけても、自分の方が格上だと思っているので何も感じないのである。 なぜか。 伊藤には切り札の一言があるからである。 山縣が伊藤の気に入らないことを言うと一言。 「高杉