賠償金を大幅に減額した ヤング案への移行 シュンペーターがボン大学教授としてオーストリアから移住した1925年のドイツは、パリ講和会議(1919年)以来の経済危機と賠償金問題、そして政党政治の混乱に揺れていたのだが、どうにかドーズ案(1924年)による賠償金分割払いの方法が決まり、インフレも沈静化し、1929年まで経済成長を続ける安定期の入口にあった。 ドーズ案にのっとってドイツ政府は1928年末までに計60億金マルクを支払ったが、ここでお手上げ状態になる。なにしろ、賠償金年賦の方法は決まったものの、総額は1320億金マルクという天文学的な数字のままだったからである。 そこで、ドイツのシュトレーゼマン外相の主張により、再び金融専門家委員会を設け、賠償金問題の処理を再検討することになった。1928年9月16日のことである(★注1)。今度の委員長はドーズ委員会にも参加していたオーウェン・