廣松渉が死んだ。(いつの話だろ) 1970年代に「新左翼運動」に大きな思想的影響を与えた哲学者だと新聞の死亡記事は報じていた。「思想的影響」についてはつまびらかにしないが、廣松が70年代の「ウッド・ビイ・インテリゲンチャ」の少年層に深刻な「文体的影響」を及ぼしたことについては異論の余地がないだろう。 70年代のはじめ頃、青臭い観念の言葉を紡ぐ少年たちにとって、文体上の師匠は誰よりもまず吉本隆明であった。 「わたし(たち)」とか「じじつ」とか「さしあたり」とかいうどうでもいいような吉本フレージングを少年たちは濫用した。「新左翼」ムーヴメントの総破産の流れの中をよろけながら歩く政治少年の索漠たる心情と吉本の言葉遣いはおそらくなじみがよかったのだろう。 そして吉本文体固有の「べたつき」に人々がいささかうんざりし始めたころ、廣松文体が出現した。はじめて『世界の共同主観的存在構造』を読んだときの衝撃