大学在学中の97年にアーティストとしてフィリップモリスアートアワード、ファイナル・セレクションに選ばれ、PS1MOMA(ニューヨーク、アメリカ)でのグループ展に参加し若手アーティストとして脚光を浴び始めたころにグラフィックデザイナーとして転向した福原は現在、数々のヒット商品のロゴ、または企業ロゴなどを制作し活躍しています。 福原は黒く塗られたキャンバスに鉛筆で葉や花、波や馬などのイメージをいっさいの下書きも作らずに均等の細さや等間隔で無数の実線で描きます。キャンバスは一見するとただ黒い画面ですが、間近で見ると鉛筆で端から端まで描き尽くされたそれらのイメージが浮かび上がります。黒の地に鉛筆というシンプルなメディアの特徴により見る者の環境(画面までの近さや明るさの種類)によりイメージはさまざまに表情を変えるのです。本展覧会では福原を代表する黒作品のほか、黒の技法を応用し銀箔の平面作品など、日本
2012年。この当たり前の年号に文頭に置いたのは無根拠ではない。きっとこれが現在であり、最もいま重要な課題として立ちはだかっているからである。ぼくらは、最後まで現在から逃れることはできない。 現在進行形の新しき今日というのは、常に絶えず更新されうる状況を待ち望んでいるにも関わらず思考は混沌した状態から抜け出すことはできずに震え上がるばかりで、いっこうに明日にはいけないで、どうしても明日に見えていたものが今日にすり替わってしまったところで、ああしまった、と嘆くばかりではどうしようもない。それは置いてきぼりを喰らった少年にように、健やかに見送るわけにもいかないので、冷や汗まじりに臭い吐露を投げ出すばかりかもしれないが、昨日だってそうだったに違いないと結論をどうにか穿り出す。奇妙なことに、世界の端っこであったと思われていた思想は既にもうどこにもない、ただただあるのは、とんでもない距離の向こう側に
本展覧会では代表的なスタイルである「黒の支持体に黒い鉛筆で描く」作品群に加え、初公開となる新しい技法をもちいた作品を展示いたします。福原は本展のコンセプトを「落下」すること、すなわち論理や法則からの離反だと言います。構成やバランスといった自らの中の作為/意図から自由になり、制作の瞬間に宿る「今」を表現する試みを続けてきた福原が今回挑んだのは、無自覚ゆえにそこから自由になれないものです。例えば、植物の芽は上に向かって伸び、根は下に向かう。リンゴを投げれば放物線を描いて床に落ちる。そんな身近な物理法則から自由なアート作品はどれくらいあるだろうか。そんな内なる問いとの対話の中で生まれたのが、正位置すらないかのような混沌としたモティーフの戯れであったのでしょう。描くこと、「実線をつむぐこと」において表現することと表現しないことの間の葛藤を表現しつづける福原の最新作です。 [画像: 福原寛重 「th
自分の視野や心象風景は、他者と完全には共有できない。わたしたちはこの当たり前の境界を、無意識に了解して日々を過ごしている。例えば昨日見た夕焼けの美しさを人に伝えようとする時、物理的に視界を切り取る写真にも、想像力を引き出す文章にも限界があるだろう。絵を描くこともまた、その境界に挑む行為なのだと4人の絵を前にして改めて思う。 伊藤雅恵はこれまでの抽象性をひそめ、自身や近しい友人をモデルに、何かに追われているような鬼気迫る形相や、大地を踏みしめ颯爽と歩く凛とした女の子が見せる、生命力溢れる一瞬のきらめきを、ほとばしるような筆致と極色彩で画面にとどめた。訪れた北欧の風景を描いた問谷明希は、画面に様々な質感をもたらすため、自ら現地で撮影してきた写真プリントを用いたコラージュを下絵に、自らが包まれたやわらかな北欧の光そのままをキャンバスに染み込ませるように丁寧にうつしとる。 自由な鑑賞を促したいとい
万代洋輔は美術家として活動しはじめた2006年より2008年まで、森や林・工場などに出向き、現場にある投棄物(ゴミ)を積み上げた立体作品を作りその場で撮影する、という独自な写真作品を発表し ました。その作品は後藤繁雄氏やTim Barber氏などから大きく評価されます。同時に参加していた、アーティストグループ”ミホカンノ”も様々な分野から期待や注目を受け、万代は 国内外の個展・グループ展に精力的に参加しました。3年ぶりの個展にあたる今回は、病状の理由で直接的な"撮影"という行為から離れ、彼が今できる手段で『最良の視覚体験』を探し求めながら、それを鑑賞者である私たちに経験させることを目的とした 展示になります。本展の作品は、おもにインターネット上などに存在する既存のイメージや彼自身が過去に撮影した写真など、あらゆる種類の画像データの積層を彼が足したり引いたり掛け合わせたり、時にはトレースした
東京メトロ銀座線末広町駅4番出口より徒歩3分、東京メトロ千代田線湯島駅6番出口より徒歩3分、JR秋葉原駅電気街口より徒歩11分
東京メトロ銀座線末広町駅4番出口より徒歩3分、東京メトロ千代田線湯島駅6番出口より徒歩3分、JR秋葉原駅電気街口より徒歩11分
シンプルライフ、断捨離、心の時代などが提唱される今も、私たちの身のまわりには様々な“プロダクト”があふれています。生活を便利にしたり、美味しさや娯楽、時には癒しを提供する”プロ ダクト”。 工場で大量に製造され、流通され、消費され、その多くが儚く消えていく大量生産品は、 個人の表現としての”アート”とは対極の存在のように見えます。しかし、”プロダクト”の生産と流通は社会と経済の基盤でもあり、その魅力を伝える”広告”を含 めて、私たちをとり囲む環境の一部として多大な影響を及ぼしています。一人の人間として消費社会のなかで生き、アートという特殊なプロダクトをつくるアーティスト も例外ではありません。古くはデュシャンやアンディー・ウォーホールから、今も様々なアーティストたちが身の回りの プロダクトを題材に、あるいはヒントを得て、新しいやり方で作品を制作しています。本展覧会 は、そうした現代のアーテ
丹羽良徳(1982 年生まれ、多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科卒)は様々な手法やメディアを用いて作品を作る若手作家です。初期には、身体を酷使するようなパフォーマンスやハプニングなどを繰り返し行ってきましたが、2010 年ギャラリーαM での企画個展を成功裏に終えるなど、近年その活動の幅も一層広がってきています。 作家自身の言葉によれば、パフォーマンスではなく社会構造へ介入を試みる介入行為なのだと言います。その言葉の通り、丹羽の作品はどれも踊りや演劇的な要素は一切排除され、ある単純な作家の行為から人間社会を根底から問い直そうとする作家の真摯な姿を浮かび上がってくるようです。 この度は、3.11以降の大震災以降の社会状況をどのようにして捉えられるか、そしてその根底にはどのような問いがあるのか、作家自身の小さな身体を通して思考されていきます。主に、市街地などで行われた行為の記録を映像化した新
ホーム / 展覧会・イベント / 池田武史 「666 or more malignant songs which should be forgotten immediately after they're played」
このたび、ワコウ・ワークス・オブ・アートでは7月16日(木)より、厳選された若手作家による展覧会プロジェクト「from/to」を開催致します。5回目となる今展では、それぞれ異なったメディアで制作する2名の作家をご紹介致します。 早川祐太は、主に立体作品を制作する。自らを『現象の奴隷』であると言う早川は、重力や表面張力など普段意識することのない感覚や気配を視覚的に表現する。存在するが人間の知識が優れすぎていて感知できない現象を再構築し、アートとして提示する。繊細さを追求するようなその作品を前に、鑑賞者は感覚を研ぎすまされ、何かが生まれてくる状況を楽しむことができる。 「それは決して私が取り残されていっているという事ではなく何かに包み込まれていくような感覚に近い。凛とそこにいるはずなのにその所存が確認しきれないもの。対面しているのに背後から見つめられているようなそんな存在があるのかもしれない。
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