2024年1月1日のブックマーク (2件)

  • 中野区ー杉並区貫く「中央線」はなぜ一直線なのか

    中央線は、中野区と杉並区を東西に一直線で貫いている。どうして真っ直ぐに線路が引かれたのかは、よく話題に上がる。定説だと当時の甲武鉄道の工事担当者だった仙石貢が、地図上に一直線で線を引いたと言われている。ただ、これを証明する資料はなく、豪傑だった仙石貢のエピソードとして語り継がれた気がする。では実際にはどうであったのだろうか。 沿線住民から上がった反対の声 中央線は、甲武鉄道により建設された。この鉄道は明治の初め新宿―羽村間の馬車鉄道として出願された、玉川上水沿いをルートとしたが、東京の飲料水沿いの鉄道は、衛生面で許可されなかった。さらに時代は馬車から蒸気鉄道に移行の時期で、甲武鉄道も蒸気機関の鉄道に変更し、羽村では採算が合わないため、絹織物が盛んだった八王子に変更された。早速ルートの選定にあたり、集客の見込める甲州街道沿いが候補となった。 しかし、沿線となる住民からは反対の声が上がった。甲

    中野区ー杉並区貫く「中央線」はなぜ一直線なのか
    cbwinwin123
    cbwinwin123 2024/01/01
    歴史と文化『高円寺では阿波おどりが1957年よりおこなわれているほか、阿佐ヶ谷七夕まつりはひと足はやい1954年より開催されており、楽しむことができる。』
  • 中央線で東京直結、八王子は昔「神奈川県」だった

    八王子は江戸時代から甲州街道の要衝地であり、物資の集散地として多くの人が行き交う宿場町としてにぎわった。明治維新を迎えて社会や産業構造が変化してもむしろ発展していく。その背景には、明治新政府が外貨獲得のために生糸の輸出を奨励したことがある。 養蚕業・製糸業が盛んな八王子は、富岡製糸場が立地する上州と開港場の横浜を結ぶルート上にあった。また、甲州・信州から横浜へと向かう際にも経由地だった。そうした要因から、生糸・絹の取引で活況を呈した。 東京よりも「横浜寄り」だった八王子 明治初期までの八王子は、横浜とのつながりが強い。実際、1893年までは神奈川県に属していた。東京府(現・東京都)に移管された理由は定かではない。町田や八王子の三多摩は、自由民権運動が盛んで反政府的な地域だった。その対応がおっくうになった神奈川県知事が東京府へ譲渡したとも、東京府の水源となっている多摩川流域が神奈川県に属する

    中央線で東京直結、八王子は昔「神奈川県」だった
    cbwinwin123
    cbwinwin123 2024/01/01
    殖産興業と生糸『明治初期までの八王子は、横浜とのつながりが強い。実際、1893年までは神奈川県に属していた。』