100日議論と題されたこの本の前半では、編集部より提示された二つの問いに対して、論者が回答を行う形式となっている。以下の二つがその問いである。 日本では近年とみに、純文学や古典、人文系や社会科学系の学術書などに代表される「かたい本」が売れなくなっています。それにともない、これらの書物を持続的に刊行してきた出版社や大学出版部の深刻な経営危機が生じています。こうした現象は、日本と同様、消費文化が高度に発達しているアメリカやヨーロッパ諸国でも起こっています。 こうした現象が起こる背景にはいくつかの要因が考えられます。たとえば、出版産業のコングロマリット化や、極端なベストセラー偏重主義。あるいはテレビやラジオ、映画といった他メディアとの競合。さらには、近年とみに著しいインターネットの発展などが挙げられるでしょう。理由はともあれ、これらによって私たちの「読書週間」は、大きく変化しつつあります。 そこ
丸山眞男のノートから。安保闘争時の東大での講義の様子を記録したp131-p140の内容が印象的。気になった部分をとりあえず抜き書き。 昭二〇・一〇・二九 我が国デモクラシーの諸問題 一、天皇制との関係 …… もし天皇から一切の実質的政治参与を取りのぞいた場合、天皇のレーゾン・デトールはどこにあるのか。結局それは国民の情的結合のシンボルとしてしか考へられない。国民の政治的分裂が国民的統一の破壊にまで至る様な事態を避けるのに役立つであらう。 …… 三、政治教育の問題 デモクラシーのための教育の問題は決して単に狭義の政治乃至公民教育には限られない。いな、それを直接目標とすることは望ましくないとすら考へられる。なぜなら、それは結果に於ては戦時に於てみたと同じ様な押しつけがましいお説教に墜して、むしろ国民を政治的なものに背をむけさせる懼れがあるからだ。大切なのは国民の生活的雰囲気に於けるデモクラシー
かなり以前に、UNIX的なユートピアを創れないかという話があって、少し物語の設定を考えたことがあった*1。その時にユートピア論の構築の難しさについていろいろと知ることができたから、「風の谷のナウシカ」の原作全7巻を読み終わったときの衝撃は強烈だった。宮崎駿の描くユートピア論は、ユートピアを否定することでユートピア論足り得たというちょっと特殊な構造になっている。それを私は自分なりに「きれいな嘘のつき方」*2と表現してみたことがあったけれど、哲学的にこの物語をまとめた本があれば是非読みたいと考えていた。そして、この本、『ナウシカ解読―ユートピアの臨界』を見つけた。著者は哲学や社会学の理論を用いて詳細にこの物語を解説している。手元に置いてある本でもあるので、印象に残った部分のみメモ。ナウシカの原作と共に何度か読み返したくなる本。 近代的な意味での「正義」の立場は典型的には従来の「勧善懲悪」の子供
以前読んだ『読書は変わったか? (別冊・本とコンピュータ)』のまとめ。2003年3月16日に作成したものを若干修正して気になった部分をピックアップ。 はじめに 加藤典洋 本が売れなくなった、読まれなくなった、というのが前回の探求の出発点だったのですが、わたしについて言うなら、今回、遅まきながら勉強してみると、読書の変貌というこの現象が、その背後に、冊子の形状をした書物の登場から、その消滅へ、あるいはそれに変わる新しい書物の形状の登場へという、数千年単位の文明史的な変貌を控えているのではないか、という戦慄に似たものを感じる瞬間がありました。……いまわたしたちの目の前で進行しているのは単に「本が読まれなくなった」ということであるより、「読書という人間の経験が変わろうとしている」ということではないのだろうか。今回、カメラが一段と引いているわけが、ここにあります。(p7-8) 本を読まなくなったの
そういうことか エントリー所有することへのトラックバックより 所有「物」に価値がなくなったのではなく「所有」に価値がなくなった 所有物は他人に移る。移ると同時に自分の「have」に対して認められていた価値も他人に移る。それは自分の価値ではなく所有物の価値である。「物」には厳然として価値はある。価値がなくなったのは「所有」である。 「have」に変わる価値は何か? もちろん「be」だと考える。「自分が『何』であるか」そのものが価値として問われる時代が、ようやく始まったのではないかと。(確かそんなことを書いた本もあったと思う。タイトル失念) 「be」の時代が始まったとする根拠は? 「have」ではなく「be」の時代が始まったのだと仮定すれば、最近始まった、既存の価値観では到底理解不可能な数々の出来事(オープンソース活動とか、情報の隠蔽でなく公開&共有とか、実際に会ったこともない人を信頼する力と
ピーターの法則というものがある。 ピーターの法則(ピーターのほうそく、英: Peter Principle)とは組織構成員の労働に関する社会学の法則。 能力主義の階層社会では、人間は能力の極限まで出世する。すると有能な平(ひら)構成員も無能な中間管理職になる。 時が経つにつれて人間はみな出世していく。無能な平構成員はそのまま平構成員の地位に落ち着き、有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。その結果、各階層は無能な人間で埋め尽くされる。 その組織の仕事は、まだ出世の余地のある、無能レベルに達していない人間によって遂行される。 なぜ上司(特定の人をささない)は無能になるのか、組織はなぜ無能なのか、人間の根本的な階層社会の問題点の話だ。 よくある話として、小さな会社が急に大きくなって中間層が相対的にいなくなり 結果として、カオスやおもいっきり統制を取り過ぎて硬くなり、結果として事業がう
祝・初潜入!グーグルを巡る!! 【ロケ地】東京渋谷 【出演】タモリ、浅草キッド(水道橋博士、玉袋金太郎)、グーグル・ソフトウェアエンジニア・小松弘幸氏、竹山隆範(カンニング)、地図評論家・今尾恵助氏、グーグル・マーケティングマネージャー・永沼秀典氏、グーグル・パートナーサービス&オペレーション・テクニカルアカウントマネージャー・熊倉健介氏、グーグル・パブリッシャーアカウントマネージャー・坂庭輝美氏、グーグル・ITフィールドテクニシャン・デレックユー氏、グーグル・ソフトウェアエンジニア・南野朋之氏 【企業】グーグル 【ナレーター】武田広 【制作】テレビ朝日、田辺エージェンシー 「タモリ倶楽部Googleに潜入?」2006.7.20 でも、案内しておりましたが、今回のタモリ倶楽部では Google日本法人の社内でのロケです。 なんとバラエティ番組として初潜入だそうです。ワールドビジネスサテライ
第1回全日本剣道選手権大会決勝 榊原正錬士対阿部三郎教士 第1回全日本剣道選手権大会は、昭和28年11月8日、東京の蔵前国技館で全国より53名の剣士が参加して開催。1万人を 第1回全日本剣道選手権大会決勝 榊原正錬士対阿部三郎教士 第1回全日本剣道選手権大会は、昭和28年11月8日、東京の蔵前国技館で全国より53名の剣士が参加して開催。1万人を超える 観衆が集まった。 本大会は、戦前の剣道界の慣習であった専門家、非専門家の区別を廃し、選手の資格は年齢、段位、称号などに一切の制限を設けず、 各府県の予選を経て代表者を出し、剣道日本一を決するという画期的な構想によるものだった。 優勝の榊原正は大正9年愛知県蒲郡市生まれの33歳、名古屋矯正管区法務教官(剣道師範)、のちに剣道範士八段。戦前は名門東邦 商業で活躍した剣士。準優勝の阿部三郎は大正8年福島県相馬生まれの34歳、警視庁の剣道選手でのちの
第1回全日本剣道選手権大会決勝 榊原正錬士対阿部三郎教士 第1回全日本剣道選手権大会は、昭和28年11月8日、東京の蔵前国技館で全国より53名の剣士が参加して開催。1万人を 第1回全日本剣道選手権大会決勝 榊原正錬士対阿部三郎教士 第1回全日本剣道選手権大会は、昭和28年11月8日、東京の蔵前国技館で全国より53名の剣士が参加して開催。1万人を超える 観衆が集まった。 本大会は、戦前の剣道界の慣習であった専門家、非専門家の区別を廃し、選手の資格は年齢、段位、称号などに一切の制限を設けず、 各府県の予選を経て代表者を出し、剣道日本一を決するという画期的な構想によるものだった。 優勝の榊原正は大正9年愛知県蒲郡市生まれの33歳、名古屋矯正管区法務教官(剣道師範)、のちに剣道範士八段。戦前は名門東邦 商業で活躍した剣士。準優勝の阿部三郎は大正8年福島県相馬生まれの34歳、警視庁の剣道選手でのちの
昨日は BKCon 2006 に行ってきた。 BK というのは「一般的にはバッドノウハウの事」なんですが、昨日のは、BKCon と言っても、かつて開催された Bad Knowhow Conference 2004 の続編とかではなく、"B"atara "K"esuma "Con"ference 2006 です。 ※正しくは横浜 Linux ユーザグループ主催の「第 65 回カーネル読書会」のテーマ "mixi.jp: Scaling Out With Open Source" です。 ちなみに、Batara Kesuma さんというのは、株式会社ミクシィの取締役。 mixi の裏側を見せますというか、ちょっと hip な言いかたをすれば "Inside mixi's backend" ってカンジです。 とりあえず、プレゼン内容は YAPC::Asia の時と大凡同じでしたが、プレゼンの持ち
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