▽南京虐殺と2人の監督 映画監督山中貞雄が日中全面戦争で入営したのは、1937(昭和12)年8月末。遺作「人情紙風船」が公開された日だった。「『人情紙風船』が遺作ではチトサビシイ」という言葉を残して戦場へ。そして、山中を見送った親友の小津安二郎も、毒ガス部隊員として翌月召集される。2人の部隊はいずれも、当時の中国国民党政府の首都・南京を目指した。山中の部隊は南京攻略戦に加わり、小津の部隊は間に合わなかった。 2人は翌年、南京近郊で1度だけ再会する。そのときの2人の心中を想像する。上海から南京へ進攻する間、日本軍は各地で、小規模だが南京虐殺と同様の行為を起こしている。2人の映画監督は、自らは手を下さなかったとしても、それを現認したことは間違いない。小津が従軍中に記した「創作ノート」にも、現場に居合わせたとしか思えない、中国人老女の殺害行為が書かれている。戦場の現実を前に、2人が交わした言葉は
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