サトウキビ畑が広がる台湾中部・雲林県。田舎道を行くと、コンクリートとレンガの簡素な住居に着いた。「アジアの歌姫」と呼ばれ、42歳で急逝した伝説的歌手テレサ・テン(トウ麗君)の生家だった。 家主の張素霞さん(83)はテレサが生まれた日のことを今でも覚えている。テレサの父が明け方、「ハサミを借りたい」と頼んできた。男手一人で妻の出産に臨むのは大変だろうと思い、産湯を沸かして見守った。テレサの父は自分で赤ちゃんを取り上げ、へその緒を切った。「あの子が有名な歌手になったのは、ずっと後に報道されるまで知らなかった。産声は普通の赤ん坊と同じだった」と振り返る。 テレサの父は国民党軍の兵士で、国共内戦に敗れて中国本土を逃れ、台湾に来た。雲林県の軍駐屯地で働いたが、一家の住む部屋は13平方メートル程度と手狭で、家具は寝台と食器棚があるのみ。地元で一般に使う台湾語が分からず、近所の住民と話すことは少なかった