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historyに関するchikoのブックマーク (7)

  • World War 2 Time line

  • asahi.com(朝日新聞社):初の神仏習合寺院か 仏堂に四天王像 京都・馬場南遺跡 - 文化

    発掘が進む馬場南遺跡の仏堂跡(手前)。向こうは礼堂跡など=13日、京都府木津川市、新井義顕撮影発掘が進む馬場南遺跡の礼堂跡=13日、京都府木津川市、新井義顕撮影仏堂と礼堂のある建物跡が見つかった馬場南遺跡=13日午後、京都府木津川市、社ヘリから、南部泰博撮影  仏教で世界の中心とされる須弥山(しゅみせん)をかたどった三彩陶器が出土した京都府木津川市木津天神山の馬場南遺跡(旧・文廻池(ぶんまわりいけ)遺跡、8世紀前半)で、須弥山と四天王像を安置したとみられる仏堂跡が確認された。13日、同市教委と府埋蔵文化財調査研究センターが発表した。最外郭の柱だけで建物を支える構造で、8〜10世紀の中国に類例はあるが、国内では初めての発見という。  仏堂跡は東西約5メートル、南北約4.5メートルで、床全面に仏像などを安置する須弥壇(しゅみだん)が築かれていた。周辺からは塑像(土製の仏像)の破片が多数見つか

  • 近衛府 - Wikipedia

    近衛府(このえふ、こんえふ)は、令外官のひとつ。和訓は「おおきちかきまもり」・「ちかきまもりのつかさ」。唐名は「羽林」。 概要[編集] 近衛府は左右があり、長官は大将、次官は中少将、判官を将監、主典を将曹という[1]。その下に、府生・番長・近衛舎人があり、その他、各種の職名があった[1]。 兵仗を帯して禁中(平安京では内裏の内郭、宣陽門・承明門・陰明門・玄輝門の内側)を警衛した。また朝儀に列して威容を整え、行幸の際には前後を警備し、皇族や高官の警護も職掌とした。 平安時代中期以降、朝政の儀礼化に伴い幹部は名誉職化、兵士は儀仗兵化した。六衛府(ろくえふ。左右の近衛府・衛門府・兵衛府)の中では最も地位が高かった。 天平宝字3年(759年)に設置された授刀衛を天平神護元年(765年)2月3日に近衛府と改称し、さらにこれと神亀5年(728年)設置の中衛府とを大同2年(807年)4月22日に改組し、

  • 大膳職 - Wikipedia

    大膳職(だいぜんしき/おおかしわでのつかさ)は、日の律令制において宮内省に属する官司。朝廷において臣下に対する饗膳を供する機関である。 職掌[編集] 大宝律令以前は膳職という官司であったが、大宝律令制定時に、天皇の事を掌る内膳司と饗膳の事を掌る大膳職に分割された。ただし、主については大炊寮が掌っており、大膳職は副・調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を担当した。『養老令』によれば、醢(肉や魚を塩辛状にしたもの)、醤・未醤(みそ)などの調味料、菓(くだもの)、雑(雑穀などの製品)などを供給し、管下の組織として菓・類を扱う「菓所」と醤・未醤を扱う「醤院」が設置された。『官職秘抄』や『職原鈔』、『百寮訓要抄』などによると、後世には長官である大夫は官位相当よりも高い四位から、逆に次官である亮は官位相当よりも低い六位から選ばれる例が多くなった事が記されている。また、大同3年7月

  • 極位極官 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "極位極官" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年6月) 極位極官(きょくいきょっかん、ごくいごっかん)は、人物が受けた叙任の中で最高の官位を指す。最高の位階を極位、最高の官職を極官と呼ぶが、極官の一語で極位極官を表す場合も多い。 律令制においては、最高の官職を指して極官と呼ばれることがある。制度上は太政大臣がそれに相当するが、平安時代中期以後に人臣の摂政・関白が任ぜられると、極官として認識されるようになる。平安時代後期以後、家職が形成されるようになると貴族・官人の極位極官は家ごとで概ね定まる様になり、それに基づいて摂家

  • 参議 - Wikipedia

    明治政府における参議とは、「王政復古」により成立した明治政府の役職。 閣僚にあたる卿より上位で、さらに上位にある右大臣、左大臣、太政大臣などが実質的権限を持たない場合が多かったため、職掌分担なしに閣僚たちを指導する、いわば集団制の政府首班として位置づけられていた。 明治2年(1869年)7月の太政官制の復活により、「大臣」、「納言」と共に明治政府の重職の一つとして置かれた[5]。大臣と納言が公卿と諸侯出身者で占められる一方で、参議は薩長土肥の維新功臣から任命されていた。維新功臣同士も一枚岩ではなく、それぞれが利害を主張し対立を続けた。長州藩出身の前原一誠は同藩出身の木戸孝允に嫌われていたため、短期間で参議を辞職している。また、明治3年(1870年)には、当時、能吏として頭角を現しつつあった肥前藩出身の大隈重信(当時は民部大輔・大蔵大輔を兼任)の参議昇格を巡り、賛成派の木戸孝允と反対派の大久

  • 権官 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "権官" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年9月) 権官(ごんかん)は、朝廷の官職について、正規の員数を越えて任命する官職。「権」は「仮」という意味。平安時代に多用された。奈良時代には員外官(いんがいかん)が任命された。 中央政府の次官以下(大納言、中納言など)、地方官(国司など)に置かれた。 解説[編集] 平安時代には、公卿においては多数の権官が存在し、権官の席は常時誰かに占められていたとも言える。その理由としては、藤原氏をはじめとして名家の子弟や家長などは、一定の年齢に達すると、その実力とは別に、自動的に官位が与え

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