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参議 - Wikipedia
明治政府における参議とは、「王政復古」により成立した明治政府の役職。 閣僚にあたる卿より上位で、さ... 明治政府における参議とは、「王政復古」により成立した明治政府の役職。 閣僚にあたる卿より上位で、さらに上位にある右大臣、左大臣、太政大臣などが実質的権限を持たない場合が多かったため、職掌分担なしに閣僚たちを指導する、いわば集団制の政府首班として位置づけられていた。 明治2年(1869年)7月の太政官制の復活により、「大臣」、「納言」と共に明治政府の重職の一つとして置かれた[5]。大臣と納言が公卿と諸侯出身者で占められる一方で、参議は薩長土肥の維新功臣から任命されていた。維新功臣同士も一枚岩ではなく、それぞれが利害を主張し対立を続けた。長州藩出身の前原一誠は同藩出身の木戸孝允に嫌われていたため、短期間で参議を辞職している。また、明治3年(1870年)には、当時、能吏として頭角を現しつつあった肥前藩出身の大隈重信(当時は民部大輔・大蔵大輔を兼任)の参議昇格を巡り、賛成派の木戸孝允と反対派の大久