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学問に関するchocolat81のブックマーク (3)

  • 日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか

    いいかげん納得のいく理由を教えてくれ。 今年ももうすぐセンター試験だ。何の罪もない高校生たちが、「古文・漢文」という暗記ゲームを強制され、不当にも人生を左右されている。 おれは実学至上主義者ではない。学問が、社会に対して有益である必要はこれっぽっちもない。そもそも「古文・漢文」という"学問"が、根的に無意味だと立証するだけの道具はない。大学で専門的に研究している人たちにとって、古文・漢文はどこまでも「面白くて」「魅力がある」のも理解できる。「役に立つ立たない」じゃなくて「好き」で学べるのは素敵なことだと思うし、好きな人のためにそういった場を用意するのは社会の義務だと思う。多少なりとも共感能力と良心があるんだったら、文学部不要論とか言ってないで税金投入しろよ、って思う。 ようするに言いたいのは、ここでの古文・漢文不要論と、大学での文学部不要論は全くことなる議論だってこと。 専門的な学問を「

    日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか
  • 人文系は学問じゃない

    知り合いの話を聞いた感じでは、人文系の研究って二次創作みたいな感じなんだな。 なんかのについて延々論文を書くだけで研究になるんだから。 少なくとも学問じゃないよね。 別に趣味ならいいけどさ、国の金もらってやることか? 税金で二次創作やるって恥ずかしくないんだろうか? 生きていることが恥ずかしくなったりしないんだろうか? 金回すべきところは他にいくらでもあるだろ。 まああの人たちは、質()とか真理()とか分かってるから世界が違って見えるんだろうな。 幸せそうで羨ましいことだ。

    人文系は学問じゃない
  • 天才性と秀才性

    天才性はある事柄を学んだ時に感覚的に理解することができる能力で、 秀才性はある事柄を学んだ時に直感的な理解は得られないが、 一つ一つ段階を踏むことで理解することができる能力だ。 と仮定すると、天才性と秀才性にはある種の連続性が存在する。 天才性をエレベーターに例えるなら、秀才性は階段である。 この意味では誰もが天才性と秀才性を有する。 多くの人が1+1=2という決まりごとは直感的に受け入れることができるし、 ある程度の段階まではエレベーターに乗って進むことができる。 しかし多くの人が小学校中学校と進学するに連れて徐々にエレベーターを降りて階段を進まなければいけなくなるだろう。 だが階段を進むだけでもかなりの高さに到達することはできる。 高校大学あるいはそれ以上の段階までエレベーターで登っていけたとしても、 どこかの段階で誰しもエレベーターを降りて階段を歩むことになる。人間は全知全能でないか

    天才性と秀才性
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