ゲームとgameに関するcomicfanのブックマーク (13)

  • ハドソンがファミコンに参入するまで(5/終)::Colorful Pieces of Game

    これは1983年春に始まり、1984年7月に終わる、ハドソンが史上初のサードパーティとして、ファミコンに参入するときの物語だ。 たくさんの当時の(がつくのが残念だが)ハドソンの方の協力を得て、ほぼ正しい歴史として記述できていると思いたい。 ただし、残念なことに、かなりの方から「自分の名前が文の中に出てくるのは歴史的なことだからいいけれど、誰が言ったかは分かるのはいやだ」といわれてしまったので、最初に名前を出してしまった野沢さん以外はハドソン関係者、ということで伏せておきたい。 さて文。 1983年の秋までファミコンの売れ行きを見たハドソンは、これならイケるということで、サードパーティとしてファミコンに参入するべく、まずファミコンソフトの開発ツールを開発してから、任天堂との交渉に臨むことにした。 複数のハドソンの関係者によると、任天堂とハドソンの交渉があったのはハドソンが開発ツールを完成し

  • ハドソンがファミコンに参入するまで(1)::Colorful Pieces of Game

    これは1984年に、ハドソンが初のサードパーティとして、ファミコンに参加するときの物語だ。 前のポストで、野沢さんの証言を元にブログを書いたら、いろんな人から細かい情報が集まって、どんな風にハドソンがファミコンに参入したのか、そのプロセスはどういうものだったのかを、ようやくその全貌が正しく明らかになったと考えられるようになったので、再度具体的に書いていきたい。 ところで、この記事は、前の物とかなり激しくかぶるのだけれど、前のものを消すとどのように変化したか? が分かりにくく、かつ前回のに付け加えをするには、あまりに多すぎるので、あえて新しい記事としてアップロードすることにした。 あと今回、何人か名前を出して欲しくないといわれた関係者が現れてしまったので、野沢さんの言葉と一緒に、当時のハドソン関係者と、今のところは伏せておくことにしたい。 …って考えてみたら、野沢さんの名前出していいかどうか

  • 現代ゲームデザイナー向け基礎教養本::Colorful Pieces of Game

    の5つの要素技術について、僕が大いに参考にしているを並べる次第。もちろん、自分の浅学菲才をなんとかするために、日夜参考にするレベルw 実は、これ全部横には並べてあるのだけど、なんの説明もしていないも同然だし、一度自分自身の整理もかねてレビューを書いておこうという次第。 もちろん、あなたが天才なら、こんなものいらない。 世の中には、普通の人が壁になって苦しむことを簡単に乗り越えていく超人がウン万人に一人ぐらいいる。そしてそういう人はみんな「え? なんか難しい?」とか平気で言う。 けれど、たいていの人(もちろん僕も含めてw)は、そうじゃない。そして、そうじゃない人にとっては、こういう困ったときに立ち返れる基礎知識はとても大事だと思っている。 ■ゲームエンジン・アーキテクチャ ともかく長い・デカいだけど、近代的なゲームエンジンに必要とされている要素のすべてについて、ほぼ網羅的に解説されている

  • Zorkと弟切草とビジュアルノベル(1)::Colorful Pieces of Game

    遥か遠い昔に書いたadventureに関する歴史の文が出てきたので、今の最新の知識でアップデートして、再度公開するココロミ。 歴史の中身としては"Text Adventure"から"Graphic Adventure"が登場し、これが日にやってきて最終的にサウンドノベルやビジュアルノベルに至るまでの話。バイオハザードの文を書いたときの副産物だったりする。 ■1970年代初頭-パソコン以前 もともと――コンピュータゲームが出てきたのは1970年代初頭。 その頃のコンピュータは、今の電卓よりマシンパワーがない代物だった。 だいたいUNIX(とおっても有名なOS。linuxのご先祖様)からして、RAMが16キロバイト(間違いではないぞよ)、ハードディスクが10メガバイト(同じく間違いではないぞよ)とか、まあ信じられないほどショボいハードの上で動いていたぐらいなのだ。 このハードウェア構成で想像

  • 大きいことはいいことか?(1)::Colorful Pieces of Game

    Re:ゼロから始める ゲームシナリオ ライトニング伝説 さよならハドソン ドラクエとFFと ToHeart 誰得ゲームライフ ときめきメモリアル の時代 イースI・II製作メモ ■頒布ページ■

  • 昔話のまとめ::Colorful Pieces of Game

    Re:ゼロから始める ゲームシナリオ ライトニング伝説 さよならハドソン ドラクエとFFと ToHeart 誰得ゲームライフ ときめきメモリアル の時代 イースI・II製作メモ ■頒布ページ■

  • 焼きそばと海外版イースとオッパイパイ::Colorful Pieces of Game

    あいざわひろしの話によると、ちゃくちゃくと発送しているらしいです。 通販自体は6月30日で締め切るそうなので、あっしのイースのが欲しい方はどんぞ~ん。 ■通販ページ ところで通販しているイース制作メモは20年以上も昔の記憶ですから、結構ポロポロと間違いがあるわけですがw スタッフの百田に連れて行かれて辟易とした焼きそば屋の場所を間違っていたことがわかりましたw オーロラタウン(大通りの地下)にあったつもりだったのですが、すすきのだったようです。 ツイッターで昔暮らしておられた方が教えてくれました。 …そしてなんと驚くべきことに… 今でもある事実が!w リンク先を見ればわかりますが、アホっぽい盛りで、百田のヤツは「通は焼きそばをソースだけでべるんですよ」とかいいやがって、量は多いわ、麺はイマイチ(当時の話っすからね!)だわで、全くスタッフを辟易とさせたわけですが…やっぱり、このアホっぽい

    comicfan
    comicfan 2011/06/29
    オッパイパイの謎が解けた!
  • 故・多摩豊氏の名誉のために批判する::Colorful Pieces of Game

    Re:ゼロから始める ゲームシナリオ ライトニング伝説 さよならハドソン ドラクエとFFと ToHeart 誰得ゲームライフ ときめきメモリアル の時代 イースI・II製作メモ ■頒布ページ■

  • PCエンジンの開発システム(写真)::Colorful Pieces of Game

    僕の古くからの知り合いに飛田さんという人がいる。 今でもハドソンにいる人で、有名なところでは桃太郎伝説などのさくま先生の一連のシリーズを手がけている天才肌のプログラマーなんだけど、この人が約20年前に発売された『月間PCエンジン』の付録の『ハドソン全科』(1990年初頭と思われる)がたまたま発掘されたということで、それをスキャンしてPDFにしてくださった。 この中に、今までいくら探しても見つからなかったハドソンの作った開発ハードHu7とHu7CD、さらに和泉さんが作ったDF(グラフィックエディタ)の写真が載っていたので、そこを切り出して、簡単な解説を加えて、資料として残しておきたい。 なおDFについては、それだけで1記事になってしまうので、別記事で。 ■関連記事 ■PCエンジンの開発環境(ROM) ■PCエンジンの開発環境(CDROM) ■PCエンジンの開発環境(補足) ■Hu-7■ プロ

    comicfan
    comicfan 2011/06/21
     こんなの使ってたのか…
  • 星恵太君のこと::Colorful Pieces of Game

    今まで、ほとんど、このブログに出たことがなかった人の話をちょっと書きたくなった。 この記事のタイトルにもなっている星恵太君のことだ。 星君は、僕がハドソンでお金をもらって関わった仕事4作(凄ノ王伝説・イース・ボンバーボーイ・天外魔境2)+1個(CDROMシステムカード)のうち、3作にかかわったサウンドアーティストだ。 …と書いても、今と当時ではサウンドアーティストの仕事がぜんぜん違うものになっているので、ちょっと当時(1990年代後半まで)のサウンドアーティストの話を書いておく。 当時のサウンドアーティストってのはどんな仕事をするのかというと、今のゲームマシンで仕事してる人には信じられないだろうけれど、ものすごくプログラマに近い存在で、かつ効果音と曲の両方を作る人だった。しかも、たいてい作曲までやるのが当たり前だった。どうみてもムチャだ。 こんなムチャクチャだったのも、かなり特別な人でない

  • エミュレータってなあに?::Colorful Pieces of Game

    Re:ゼロから始める ゲームシナリオ ライトニング伝説 さよならハドソン ドラクエとFFと ToHeart 誰得ゲームライフ ときめきメモリアル の時代 イースI・II製作メモ ■頒布ページ■

  • 山根ともおというヤツ::Colorful Pieces of Game

    彼は疑いもない天才、超越的なドット屋+α、今で言うならアートディレクターだったと思う。 また反面、当に社会人としてはダメなやつで…例えば、彼と初めて会ったときの話は 山根ともおとの出会い に書いたけれど、当にそこに書いてあるとおりで、全く社会人の常識をわきまえていない…というか、気にしていないというか、まあ困った男だった。 しかも山根は社会人としてはまるで破綻しているムチャクチャなエピソードが山のようにある男だった(その一端はイースの話や、さまざまなところで書いたけど)。 例えば1989年にあったトマトのエピソードなんかもすごい。 イースを作っているとき、山根は並行して何かの仕事を請けていたらしいのだけど、それでトマトが必要になり、慌ててトマトを買ってきた。で、トマトを机の上の作業用ボードに置いて絵を描いた。 そこまではいい。 そして山根はそのまま北海道に来てイースを作って、数週間ぶり

    comicfan
    comicfan 2011/06/11
    なんだか涙でた
  • アマガミとWhichとHow::Colorful Pieces of Game

    ブログ…というか、日記というか、ともかく『アマガミ』のレビューを読んだ。 とても面白い記事で、いろいろと考える事があったのだけど ── ともかく、まずこの記事を読んでくれないと、今日の記事はわからないので、興味のある方は、読んでからドウゾ。 読みましたか? 読んだなら、続きをドウゾ。 というわけで。 とても面白いレビューで感心したのだけど、同時にあまりに歴史的な考察が足りない。 だから「どうして恋愛ゲームはWhichではなくHowになったのか?」について、歴史的な観点からは問題のあることを書いてしまっている。 書いた人物はなんせ30歳そこそこらしいので、それはしょうがないのだけど、これじゃ今までギャルゲーを作ってきた人達があまりに浮かばれないので、ここで、古くからゲームをプレイしている人間が「なぜWhichではなくHowになったのか?」について書こうというわけだ。 「なぜWhichではなく

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