ブックマーク / www.highriskrevolution.com (58)

  • 【企画】トップ絵ギャラリー【その34】::Rosette

  • cOMIC1★6新刊情報 詩織第1章・新装版::Rosette

  • 誰にとっていいゲーム?::Colorful Pieces of Game

    僕の大嫌いな言葉に「いいゲームを作れば売れる」とか「面白いゲームを作れば売れる」って言葉がある。 どうしてこの言葉が大嫌いなのか? 何も考えずに読むと、正しそうに見えるくせに全く間違っていて、しかも有害な言葉だと思っているからだ。 どうして有害だと思うのか? これは質的には、作り手に向けて使われる形の言葉だけど、重要な要素がいくつか致命的に抜けているからだ。 まず、なにより最初に抜けてる要素は売れるってのはいったいどれぐらいなのか? だ。 この言葉、どれぐらい売れれば成功なのかについては、何も定義していない。 黒字ならいい? いやあ、違うだろう。こういう書き方をされるときには「ものすごく売れる」のが前提、つまり50万・100万といった単位だ。つまりいいゲームでないから、50万売れないわけだ。 いったいそんだけ売れるゲームが年間何あると思ってるんだ、と突っ込みたくなるが、さすがに50万は

  • 僕とBeepのちょっとした思い出::Colorful Pieces of Game

    今日(3/8)、鶴見六百、つまり清水芋吉からツイッターで伝えられて、思わず少しつぶやいたけど、やっぱこういうことはブログとかに書いておこうと思ったので、日記がてらに、Beepから始まった、歴史としては日最古と言っていいゲーム専門誌が休刊するということで、ちょっと思い出話などを書いておきたい。 僕が実質的にライターデビューしたのはBeepだった。 そして、Beepは僕の人生に決定的な影響を与えている。 どうして…という話を始めると複雑怪奇なのだけど、面倒くさい話をはしょって簡単にまとめると、僕が入社したベンチャー企業は漫画家の御厨さと美先生が関係していた。 そして御厨先生のプロダクションは当時ちょうどBeepの読者コーナーの仕事を請ける話になっていた。 これがYATATA WARS。 今で言う読者参加型ゲームの走りみたいなものだけど、当時はそこらへんをうまくシステム化できなくて、イマイチ盛

  • ハドソンがファミコンに参入するまで(5/終)::Colorful Pieces of Game

    これは1983年春に始まり、1984年7月に終わる、ハドソンが史上初のサードパーティとして、ファミコンに参入するときの物語だ。 たくさんの当時の(がつくのが残念だが)ハドソンの方の協力を得て、ほぼ正しい歴史として記述できていると思いたい。 ただし、残念なことに、かなりの方から「自分の名前が文の中に出てくるのは歴史的なことだからいいけれど、誰が言ったかは分かるのはいやだ」といわれてしまったので、最初に名前を出してしまった野沢さん以外はハドソン関係者、ということで伏せておきたい。 さて文。 1983年の秋までファミコンの売れ行きを見たハドソンは、これならイケるということで、サードパーティとしてファミコンに参入するべく、まずファミコンソフトの開発ツールを開発してから、任天堂との交渉に臨むことにした。 複数のハドソンの関係者によると、任天堂とハドソンの交渉があったのはハドソンが開発ツールを完成し

  • ハドソンがファミコンに参入するまで(1)::Colorful Pieces of Game

    これは1984年に、ハドソンが初のサードパーティとして、ファミコンに参加するときの物語だ。 前のポストで、野沢さんの証言を元にブログを書いたら、いろんな人から細かい情報が集まって、どんな風にハドソンがファミコンに参入したのか、そのプロセスはどういうものだったのかを、ようやくその全貌が正しく明らかになったと考えられるようになったので、再度具体的に書いていきたい。 ところで、この記事は、前の物とかなり激しくかぶるのだけれど、前のものを消すとどのように変化したか? が分かりにくく、かつ前回のに付け加えをするには、あまりに多すぎるので、あえて新しい記事としてアップロードすることにした。 あと今回、何人か名前を出して欲しくないといわれた関係者が現れてしまったので、野沢さんの言葉と一緒に、当時のハドソン関係者と、今のところは伏せておくことにしたい。 …って考えてみたら、野沢さんの名前出していいかどうか

  • 現代ゲームデザイナー向け基礎教養本::Colorful Pieces of Game

    の5つの要素技術について、僕が大いに参考にしているを並べる次第。もちろん、自分の浅学菲才をなんとかするために、日夜参考にするレベルw 実は、これ全部横には並べてあるのだけど、なんの説明もしていないも同然だし、一度自分自身の整理もかねてレビューを書いておこうという次第。 もちろん、あなたが天才なら、こんなものいらない。 世の中には、普通の人が壁になって苦しむことを簡単に乗り越えていく超人がウン万人に一人ぐらいいる。そしてそういう人はみんな「え? なんか難しい?」とか平気で言う。 けれど、たいていの人(もちろん僕も含めてw)は、そうじゃない。そして、そうじゃない人にとっては、こういう困ったときに立ち返れる基礎知識はとても大事だと思っている。 ■ゲームエンジン・アーキテクチャ ともかく長い・デカいだけど、近代的なゲームエンジンに必要とされている要素のすべてについて、ほぼ網羅的に解説されている

  • Zorkと弟切草とビジュアルノベル(3)::Colorful Pieces of Game

    続き。やたら長いうえに、どんどん書き直しが増えてきて手間3倍増w ■アドベンチャの復興、そして… こうして消滅したかに見えた日でのアドベンチャが復活を始めたのは、まずPCエンジンの登場による。 (一部アダルトゲーム系では確かにアドベンチャは生き延びていたが、それは単純に絵を大きく見せるためと低予算なゲームを作るためでしかなかったので、現時点では無視する。ただし、この低予算とある要素が結びついて違った形のゲームを最終的には生み出すことになるが、それはあとの話だ)。 というのもPCエンジンには、今までにはない巨大な容量を誇るメディア、CDROMが搭載されており、これにより、今までのゲームでは不可能だった莫大な量のグラフィックとオーディオを使用したアドベンチャを作ることが可能になったのだ(なお、PCエンジンは世界初のCDROM搭載ゲームマシンでもある)。 具体的にはハドソンのデジタルコミック(

  • Zorkと弟切草とビジュアルノベル(1)::Colorful Pieces of Game

    遥か遠い昔に書いたadventureに関する歴史の文が出てきたので、今の最新の知識でアップデートして、再度公開するココロミ。 歴史の中身としては"Text Adventure"から"Graphic Adventure"が登場し、これが日にやってきて最終的にサウンドノベルやビジュアルノベルに至るまでの話。バイオハザードの文を書いたときの副産物だったりする。 ■1970年代初頭-パソコン以前 もともと――コンピュータゲームが出てきたのは1970年代初頭。 その頃のコンピュータは、今の電卓よりマシンパワーがない代物だった。 だいたいUNIX(とおっても有名なOS。linuxのご先祖様)からして、RAMが16キロバイト(間違いではないぞよ)、ハードディスクが10メガバイト(同じく間違いではないぞよ)とか、まあ信じられないほどショボいハードの上で動いていたぐらいなのだ。 このハードウェア構成で想像

  • 1991年1月 浦上進君と日本テレネット::Colorful Pieces of Game

    1991年1月、天外2はいよいよ、実際の開発作業に入るための最終準備段階に入っていた。 実際の作業は市ヶ谷の角川メディアオフィスが入っていたビルの裏にある貸しビルの2F(今でもあったので写真を載せておく)に開発チームが集まって、行われることになっていた。つまりアルファシステムやハドソン北海道の連中からすると、長期出張ってことになる。これは天外2クラスになると、毎月広報などがあるうえに、広井さんも桝田さんも忙しくなっていて、北海道に長期開発チームが集まるのが難しかったのが理由として一番大きかった。 とはいっても新年そうそうだったので、借りた事務所にチームは集まっていなかったが、僕は開発機やらいろいろなもののレイアウト計画やらハードの準備があり、加えて、当然桝田さんや山根との打ち合わせもあったので、それに忙殺されていた。 開発チームのやり方は、ハドソンで覚えた、学校の倉庫などに良く置いてあるス

  • 懐かしのカーレース::Colorful Pieces of Game

    教養ゲーム史について書いたとき、ちょっとカーレースについて触れたら、もっとカーレース…特に2D時代のセガとタイトーのカーレース黎明期のつばぜり合いについて書いておきたくなったので、ここに記しておく。 この話は、僕が9歳からスタートし、最後は18-9歳あたりまで続く、当時2つのゲームメーカーがカーレースについて張り合っていたら、そこに第三のメーカーが現れ、あっつーまにジャンルそのものが過去の遺物になってしまうまでの物語だ。 さて。 僕がテレビゲームと出会ったのは、1973年。2泊3日のハワイ旅行のホテルだった。 小学校4年の夏休みだったので、多分10歳になっていたのだろうと思う。 ホテルに置かれていたのは PONG! 。ただしアップライトではなくカクテル筐体バージョンだった。カクテル筐体だったので上がスモークの茶色のアクリルになっていて、恐ろしくハイテクな印象だった。これがATARIのオリ

  • 教養としてのゲーム史を読んだ::Colorful Pieces of Game

    教養としてのゲーム史を読んだ。 というか、結構、前に読み終わっていたのだけど、ゲームロフトの仕事が忙しくて余裕がなかったので、この文を書くヒマがなかった…というのが正しいところ。 の中身を簡単にまとめると「筆者、多根氏のゲーム史観に従って、ゲームを取捨選択し、テレビゲーム歴史の流れ(の一つ)を浮き彫りにした」ということになる。 選ばれたジャンルとゲームは多岐に渡るけれど、だいたいにおいては妥当と言えると思う。もちろん「アレはいれないの?」と質問はしたくなるわけだけど何を選び、それから何を読み取り、何を書くかは書き手の権利だ。 とはいっても「スペースインベーダーの敵の動きからスクロールゲームは完成した!」なんてポカーンな事が書かれていれば「この書き手は、なんも調べず書いているのか!?」とか突っ込みたくなるトンデモって話になるけれど、選ばれているゲームはちゃんとしているし「それはちょっ

  • バイオハザード(1)::Colorful Pieces of Game

    「バイオハザード」は1996年にプレイステーション1(以下PS1)で発売されたソフトである。 当初は25万ほどの販売だったが、徐々に売上を伸ばし、ついにはPS1最初のミリオンセラーソフトとなり、カプコンを代表するシリーズの一つとなった作品である。 どこかの少年マンガ「バイオハザードを作った男たち」では、いい加減なストーリーによるいい加減な開発の話が書かれていた(あのマンガの中で正しいのは名前だけだと思う…)が、実際の「バイオハザード」に至る道は、当に長く、そのコミックの比ではない。 ここでは、バイオハザードに至るまでの道のりと、さらにバイオハザードがゲーム界に何をもたらしたのかについて論評してみたい。 ■始まり バイオハザードに至る道のりの始まりは、当のルーツを辿れば、むろん様々なアドベンチャや、その他全てのコンピュータRPG(以降CRPG)と同じ、世界初のロールプレイングゲーム「ダ

  • ドラゴンクエスト1(3/終)::Colorful Pieces of Game

    前回は習作に近いドラクエ1だが、その中に強烈なオリジナル要素があり、それが死の概念の扱い方だという話を書いた。 ドラクエ1以前はRPGの死には2種類あり「死んだらキャラクタが消滅する(ウィザードリィなど)」と「死んだら最後のセーブまで巻き戻る」で「おお XX しんでしまうとは なさけない おまえに もういちど きかいを やろう」というセリフと共に生き返るドラクエは実はすごくオリジナルだった。 そして、これはプレイアビリティ・ユーザー層・当時のマシンの貧弱なリソース、そしてさらにこれから書く理由を勘案して「死んだら、お金半分」を採用したと思われる…つーところまで書いたわけだけど、今回はその理由。 確かに市場の要請と技術的な問題があったのは疑いもない事実だろう。だが市場の要請やマシンのリソースが「死んだらパスワードを入力させる方式(コンティニュー)を取らない」とする決定的な理由には全くならない

  • ドラゴンクエスト1(1)::Colorful Pieces of Game

    実は発表するあてもなく、ゲームについて書いている文章がたまっているので、それをブログにでもアップしていくかという試み。一時「XXなゲームライフ」って同人誌を作っていて、それの延長上みたいなもの。 調査が甘く、記憶に頼って書いているところがあるので、間違いなどがあるかも知れない。 もし、そういう間違いがあったら教えていただきたい。 今回は「ドラゴンクエスト1」…その1。 ファミコンにおける、いや日におけるRPGブームの火付け役であり、日のRPGのほとんど全てに対しての、恐ろしいほど沢山の常識を作ったゲームである。 まさに日の「コマンド型RPG」の元祖と呼ぶにふさわしいゲームなのだが『ドラゴンクエスト』(1986.5.27/ファミコン)について書くためには、まずなにより発売された時代の背景を知らなければならない(以後ドラクエ/DQ)。 ドラクエ発売より2年ほど前の1984年頃。ファミコン

  • 1990年12月 SFC、レッドの忘年会、そしてBINGO::Colorful Pieces of Game

    アップロードのタイミングがいいので日記代わりに。 いろいろあったのだけどやっぱり海外の会社に就職した。 会社はgameloft。仕事はlead game designer / game director ってことになる。 また日語じゃない言葉を喋る仕事になってしまったw 海外就職シリーズでちょっと付け加えたいことが出来たので、近いうちに書く予定。ともかく忙しくて、やることが突然増えて大騒ぎ。 以下文。 1990年12月。 スーパーファミコンが1ヶ月ほど前に発売され、超品薄になり大変な騒ぎが起こっていたけれど、僕ら天外2のチームにはあまり関係がなかった。 というか、スーパーファミコンは、もちろんPCエンジンスーパーCDROMのライバルではあったけれど、反面、サードパーティ・雑誌社などにとっては期待の新製品発売でゲーム業界の盛り上がりに水をかける必要などない。 天外2チームとしては「いやー

  • 地形効果というチャレンジ::Colorful Pieces of Game

    今『鉄拳5』をやっているのだが、これが猛烈に出来がいい。レビューをやっていた当時なら90点以上はつけないと嘘でしょうって代物。 およそ、アーケードファンにはケチのつけようのない完成度なのだが、この作品、鉄拳4と比較してエラく違う作風になっている。 いや、正確に言うなら、鉄拳5は1-3の直系の子孫で、4が別の要素を持った違う系列の作品なのだ。 その1~3、5と4の一番違うところは「地形効果」。4で入れた地形の要素を5では全て取り払って、先祖返りしたわけだ。 元々、このジャンルには「リングアウト負け(勝ち)」といった端を意識しないといけないゲームがあったが、それを大幅に拡張し、そのバトルフィールドそのものが、斜めになっていたり、形が四角や丸といった単純な物でなくなったり、箱があったりと…フィールドをリアルにすることに『バーチャファイター3』が挑戦したわけだ。 で、この3でのチャレンジを受けて、

  • ゲーム屋が海外で就職する方法(2)::Colorful Pieces of Game

    と、こういう流れがあって、今、僕は6のところにいるので「まあオッケーかな」と書いたわけだ。 ところで一つだけ注意しておくのが海外の就職活動は良くも悪くも「コネ」にものすごく影響される。 それも日のコネではなく、コネクション、文字通り人と人の繋がりだ。例えば今回の就職活動がその典型例で、いろいろあって会社辞めたとFacebookに書いたら、数年前に韓国で一緒に仕事したスタッフが僕を会社の上司に推薦してくれて、jobに送ってくれ…という話を始めたわけだ。 もちろん、それ以外のぶっつけ番もありだけど、この話があるとないとでは突破できる確率は当然変わる。で、このコネクションを作るのに役に立つのがFacebookとlinkedin。海外で就職する気があるのなら、絶対にこの2つのSNSはやったほうがいい。特にlinkedinは仕事をする上ではとても役に立つ。 あと、僕のfacebookもしくはli

  • 夏コミ情報その1::Rosette

  • 夏コミ情報その2っ! 生存戦略っ!::Rosette