(上) 旧満州国ハルビン市で多くのユダヤ人難民の命を救った一方、アッツ島では日本軍初の「玉砕戦」を経験、その後、旧ソ連軍との死闘を演じて北海道を守るなど、数奇な運命を辿った軍人・樋口季一郎。彼を形成した生涯を振り返る。 軍人の名門校に進学 兵庫県三原郡阿万(あま)村(現在の南あわじ市)の生まれ。姓は「奥浜」で、16歳のころに岐阜県大垣市の叔父の養子になり、樋口姓になった。実家は由緒ある廻船問屋だったが、幼少の頃に家業が立ち行かなくなり、両親も離婚。樋口は姉、妹たちと母の実家で育った。 高等小学校卒業後の1901年(明治34)、叔父の薦めにより、軍人の名門校として知られていた兵庫県多紀郡篠山町(現篠山市)の私立尋常中学鳳鳴義塾へ入学。樋口が書いた「回想録」の冒頭は、「私が笈を負って丹波篠山の鳳鳴義塾に入学したのは明治三十五年四月であり、私の15歳の時であった」から始まる。 3学年上の堀内謙介