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2018年11月3日のブックマーク (3件)

  • "もう一人の杉原千畝" 晩年、多く語らず 樋口季一郎とは(下) | 丹波新聞

    (上) 旧満州国ハルビン市で多くのユダヤ人難民の命を救った一方、アッツ島では日軍初の「玉砕戦」を経験、その後、旧ソ連軍との死闘を演じて北海道を守るなど、数奇な運命を辿った軍人・樋口季一郎。彼を形成した生涯を振り返る。 軍人の名門校に進学 兵庫県三原郡阿万(あま)村(現在の南あわじ市)の生まれ。姓は「奥浜」で、16歳のころに岐阜県大垣市の叔父の養子になり、樋口姓になった。実家は由緒ある廻船問屋だったが、幼少の頃に家業が立ち行かなくなり、両親も離婚。樋口は姉、妹たちと母の実家で育った。 高等小学校卒業後の1901年(明治34)、叔父の薦めにより、軍人の名門校として知られていた兵庫県多紀郡篠山町(現篠山市)の私立尋常中学鳳鳴義塾へ入学。樋口が書いた「回想録」の冒頭は、「私が笈を負って丹波篠山の鳳鳴義塾に入学したのは明治三十五年四月であり、私の15歳の時であった」から始まる。 3学年上の堀内謙介

    "もう一人の杉原千畝" 晩年、多く語らず 樋口季一郎とは(下) | 丹波新聞
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    comzo 2018/11/03
  • "もう一人の杉原千畝" 初の「玉砕戦」司令官 樋口季一郎とは(中) | 丹波新聞

    旧満州国ハルビン市で数千人以上のユダヤ人難民の命を救った陸軍中将・樋口季一郎だが、1941年(昭和16)、太平洋戦争に突入すると、軍人人生の厳しい局面に入っていく。ユダヤ人の命を救いながら、「玉砕」という言葉が使われた戦いで司令官を務めたのも樋口だった。孫の隆一さんは「樋口にとって、ユダヤ人を助けられたことはよかったが、その後が当に大変だった」と語り、辛苦を味わった祖父の姿を浮かべる。 「玉砕」と「奇跡の撤退」 日軍は1942年(昭和17)、アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島を占領。樋口は同年、北部軍司令官として札幌市郊外の月寒(つきさっぷ)に赴任した。 戦況悪化で両島への糧補給もままならない中、翌年、アッツ島に米軍が上陸した。米軍1万人超に対し、日軍はわずかに2600人。樋口は大営に増援部隊を要請したが、いったんは決まった派遣が中止となり、アッツ島は孤立。そして、日軍は全

    "もう一人の杉原千畝" 初の「玉砕戦」司令官 樋口季一郎とは(中) | 丹波新聞
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    comzo 2018/11/03
  • ”もう一人の杉原千畝” ユダヤ難民救う 樋口季一郎とは(上) | 丹波新聞

    第2次世界大戦中の1940年(昭和15)、多くのユダヤ人難民を救う「命のビザ」を発行した杉原千畝。「東洋のシンドラー」とも呼ばれた杉原の行動からさかのぼること2年前の1938年(昭和13)以降、旧満州国ハルビン市で、数千人以上のユダヤ人難民の命を救った日の軍人がいた。兵庫県の淡路島出身で、私立尋常中学鳳鳴義塾(現・同県立篠山鳳鳴高校)から軍門へと進んだ陸軍中将・樋口季一郎だ。日ではあまり知られていないが、ユダヤ人国家のイスラエルでは今も恩人として感謝されている。そんな「もう一人の杉原千畝」というべき存在であり、後に「玉砕」という悲劇に向き合った軍人の生涯を追った。 . 東条英機に「弱い者いじめ正しいか」 ナチス・ドイツの弾圧を逃れてドイツを脱出したユダヤ人難民が、シベリア鉄道で満州国との国境に近いソ連領オトポール駅に着いたのは、1938年3月8日のことだった。 当時、日ドイツと防共

    ”もう一人の杉原千畝” ユダヤ難民救う 樋口季一郎とは(上) | 丹波新聞
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    comzo 2018/11/03