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ブックマーク / number.bunshun.jp (27)

  • 32年が凝縮されたライガーvs.みのる。“人間サンドバッグ”と座礼の記憶。(堀江ガンツ)

    ライガーの掌底と鈴木のエルボー。 今回のライガーvs.鈴木は、戦前の「ぶっ殺す!」というような罵り合いと裏腹に、序盤はオーソドックスなグラウンドレスリングの攻防が見られた。相手の関節を極め合うこのせめぎ合いは、かつて新日道場で毎日見られた両者の原点だ。 それだけでなく、パンクラスでの敗戦の悔しさからブラジリアン柔術道場に通いだしたライガーは、ガードポジションからの三角絞めや、オモプラータといった、昭和の新日道場にはなかった技術も繰り出していった。原点回帰にとどまらない、いまの2人の闘いだった。 後半のハイライトは、ライガーの掌底と鈴木のエルボーの打ち合い。鈴木の強烈なエルボーにライガーが何度も崩れ落ちるが、鈴木はそのたびに、鬼気迫る表情で「打ってこい!」「そんなもんか!」と、叫んだ。 若き日の威力を知っているからこそ。 じつはライガーが素顔時代、骨法の掌底や浴びせ蹴りを身につける過程にも鈴

    32年が凝縮されたライガーvs.みのる。“人間サンドバッグ”と座礼の記憶。(堀江ガンツ)
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    crea555 2019/10/19
    “スパーリングすら『そんなのプロレスに関係ない』って言うヤツが多かった中で、強くなるための練習に呼ばれるってことがうれしかったんだ”
  • 「路上プロレス in 東京ドーム」大成功。DDTがブチ上げた“本気のデタラメさ”。(橋本宗洋)

    今年3月、旗揚げ20周年記念のさいたまスーパーアリーナ大会を成功させたDDTが、ついに東京ドーム進出を果たした。しかし、これは普通のドーム大会ではなかった。 6月1日に行なわれたのは、DDTの“大社長”高木三四郎vs.鈴木みのるの1試合のみ。試合形式は東京ドーム全域を使った路上プロレスである。 リングを使わず、書店やキャンプ場、工場などどんな場所でも闘う「路上プロレス」はDDTのお家芸だ。それをドームでやろうというのだから、むしろ普通の興行よりも“らしい”と言える。東京ドームのリングで闘った選手はたくさんいるが、東京ドームのマウンドとブルペンとスタンド席で闘ったのは高木と鈴木が初めてだろう。 アジャが国歌独唱、天龍登場、最後はホームベースで! 試合は両者がマウンド上で睨み合う中、アジャコングによる国歌独唱でスタート。 ワキ固めを極められた高木がファーストベースにタッチすると「セーフ」として

    「路上プロレス in 東京ドーム」大成功。DDTがブチ上げた“本気のデタラメさ”。(橋本宗洋)
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    crea555 2017/06/04
  • 暗黒時代の終焉と、三浦大輔引退と。DeNAとファンが諦めと決別するまで。(村瀬秀信)

    この10年間、いろんな人と一緒にベイスターズを観た。 CSに出るまでの10年間、このスタンドで、いろんな人たちとベイスターズの野球を観た。見知らぬ隣人とどうすればベイスターズがよくなるか、試合そっちのけで議論をしたこともある。 オフには身売りが確定し、拠地移転も噂されていたハマスタ最終戦で「来年もこの場所で会いましょう」と握手を求めてきたお兄さん、最下位が確定してボロ負けの試合でも必死にライジングを歌ってたあの子、KOされた高崎健太郎に「お前の力はこんなもんじゃねぇだろう!」と泣いていたおじさん。あと真剣に古木の明日を考えていた人たちとか。今ではもう会うこともなくなってしまった彼も彼女らも、この歓喜の渦のなかにいて、きっと言葉にならない喜びを噛みしめている。 「ベイスターズは地域と人を繋ぎ、世代を超えて家族を繋ぐ存在になる」 あの先が見えない暗闇の中で、前社長の加地隆雄さんはチームを信じ

    暗黒時代の終焉と、三浦大輔引退と。DeNAとファンが諦めと決別するまで。(村瀬秀信)
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    crea555 2016/09/29
    “あと真剣に古木の明日を考えていた人たちとか。”
  • 暗黒時代の終焉と、三浦大輔引退と。DeNAとファンが諦めと決別するまで。(村瀬秀信)

    この期に及んでも気が乗らない。どうせ感傷的な記事になることはわかりきっているからだ。 この「野次馬ライトスタンド」も、更新しないまま半年以上の月日が流れた。今シーズン、インタビュー以外のベイスターズに関する記事を書けなくなったからだ。 自分は嫌なファンだと自覚している。コラムでは、期待されるような原稿は書けない。この半年、編集部から何度も案を貰っても、書いてみては消す。その繰り返し。散々待たせて結局放り出した挙句、この原稿も1週間以上待ってもらっている。当にごめんなさい。 そして、横浜DeNAベイスターズがクライマックスシリーズ初出場を決めた。 2007年にセ・リーグにクライマックスシリーズが導入されて以降10年。12球団で唯一出場のなかったチームが、お題目のように唱えていた「CS」にようやくたどり着くことができた。 「あとは勝つだけですよ」と何度耳にしたことか。 当に長かった。 勝率

    暗黒時代の終焉と、三浦大輔引退と。DeNAとファンが諦めと決別するまで。(村瀬秀信)
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    crea555 2016/09/29
  • 「機動破壊」が壊した常識と精神。健大高崎が甲子園に残した“衝撃”。(中村計)

    機動破壊――。 この美しくも恐ろしげな四文字を掲げ、快進撃を続けた健大高崎(群馬)の陰には、コーチの葛原毅(32歳)の存在があった。 葛原が言うには、走塁においてもっとも重要な要素は「スタート」であり、それを後押しする「心理的優位性」だと言う。 「たとえばけん制がもう来ないとわかっていたら、誰でもいいスタートを切れますよね。そこで投手がだいたい何球ぐらいけん制するものなのか、統計を取ってみたことがあるんです。そうしたら通常は2つか3つだった。3つけん制をしたら、4つ目はまずない。 それと同じような状況を、いろいろなところから見つけてくるわけです。基的な盗塁技術は教えてますが、技術だけを見れば、聖光学院とかの方が上だと感じました」 テレビを見ながら聞いた父の解説が背景に。 葛原は現役時代、ファーストとしてプレーした。しかし50m走は7秒8と遅く、国士舘大時代は一度も盗塁を成功させた記憶がな

    「機動破壊」が壊した常識と精神。健大高崎が甲子園に残した“衝撃”。(中村計)
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    crea555 2014/08/23
    「機動破壊」!
  • 野球界にも指導者ライセンスが必要?このままでは野球少年がいなくなる!(氏原英明)

    全国で、今日も多くの野球少年が練習に励んでいる。彼らの能力が最大限に伸ばされる指導が行なわれてほしい。 先日、僭越ながらリトルリーグ関西連盟の指導者講習会で、講師役を務めさせていただいた。 未来を担う小学生を指導する監督や関係者約150人を前に、昨今問題になっている野球界の難題や指導に関する疑問を訴えさせてもらった。 その講演の最後に質疑応答の時間があったのだが、そこで、非常に興味深い意見を頂戴した。 「サッカーには指導者ライセンスがあって、野球界には指導者ライセンスがない。個人的にはあるべきだと思っていますが、(あなたは)あるべきだと思いますか?」 この質問を聞いたとき、アマチュアの野球界にも、指導に関して疑問を抱いている人がいるのだなと改めて確認をした思いだった。 なぜこのような話題をとりあげたのかというと、先日元プロ野球選手に対して、学生野球資格回復に関する認定者の公示がされたか

    野球界にも指導者ライセンスが必要?このままでは野球少年がいなくなる!(氏原英明)
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    crea555 2014/01/30
  • 山本昌がラジコンを封印した理由。「50歳まで投げる」ためのオフとは。(田口元義)

    2013年は12月31日までトレーニングを続け、年が明けると1月2日にはナゴヤ球場を訪れキャッチボールで汗を流した。 プロ31年目のシーズンを迎える48歳の大ベテランは、とにかく休み知らず、なのである。 「だってさ、家にいたって暇なんだもん」 山昌は、決まってそう言う。 盟友・山崎武司は現役時代、「俺は暇でも練習しない!」と豪快に言ってのけたが、むしろ、その考え方こそプロ野球選手の大半の心情を代弁している、と言えるだろう。休める時はしっかり休む。約10カ月。多ければポストシーズンを含め144試合以上も戦い抜かなければならない過酷さを鑑みれば、戦士にも休息は必要なのだ。 ただ、山昌にしてみれば、それも単なる固定観念に過ぎない。 トレーニングを続けるわけ。それはいたってシンプルな心構えがあってこそ。山昌は「暇」の真意について、このように説明してくれたことがあった。 40歳までは「休むこと

    山本昌がラジコンを封印した理由。「50歳まで投げる」ためのオフとは。(田口元義)
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    crea555 2014/01/09
  • 「あきらめない男」古木克明が、ついに辿りついた野球人生の境地。(村瀬秀信)

    JR阿佐ケ谷駅前でポーズをとる古木。1カ月以上もプレーしていないとは思えないほどの、黒く精悍な身体つきだ。 かつてのライバルが放った最後の打球がレフトスタンドに吸い込まれた瞬間、古木克明は自然と立ち上がり、ガッツポーズを作っていた。 10月8日、ベイスターズ拠地最終戦。現役生活最後の打席で小池正晃が見せたホームラン。その「最後の打席」を見届ける為だけに、訪れた約1年ぶりのスタジアム。 小池とは1998年ドラフト1位と6位。“松坂世代”の同期であり、ポジションを競いあったライバルだった。堅実な守備と小技が巧みな打撃等、古木にないものを兼ね備えたスタイルで'05年にレギュラーに定着し、その後も大きな壁となり続けた小池の力は、古木が最も知っていたと言っても過言ではない。 「自分の持ち味はバント」 と最後まで言い続け、チームの為に自らを犠牲にしてきた小池が、プロ野球選手として最後の場面になって初

    「あきらめない男」古木克明が、ついに辿りついた野球人生の境地。(村瀬秀信)
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    crea555 2013/11/07
  • <『キャプテン翼』作者が語る> 高橋陽一 「カール・ハインツ・シュナイダー誕生秘話」(田邊雅之)

    サッカー漫画の金字塔である『キャプテン翼』。 大空翼が欧州で出会う最大の好敵手が西ドイツの“若き皇帝”だ。 大人気漫画の作者がストーリーを構想した当時を振り返り、 名キャラクターが生まれた背景を明かした。 ブンデスリーガを特集したNumber835号より、高橋陽一先生が ドイツサッカーの魅力を語りつくした特集を全文掲載します! キャプテン翼を描き始めるきっかけとなったのは、1978年のW杯、アルゼンチン大会をテレビで観戦したことでした。 ちなみにこの大会では、ジーコやプラティニなどが脚光を浴びています。だからこそ私も翼を10番の選手にしたわけですが、一方では西ドイツ代表のFW、バイエルンに所属していたカール・ハインツ・ルンメニゲにも強烈なインパクトを受けました。そこでジュニアユース時代の翼の物語にも、カール・ハインツ・シュナイダーというドイツ人の若手を登場させることにしたんです。シュナイダ

    <『キャプテン翼』作者が語る> 高橋陽一 「カール・ハインツ・シュナイダー誕生秘話」(田邊雅之)
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    crea555 2013/09/18
  • “横浜捕手暗黒時代”最後の希望、高城俊人が谷繁に教えを請う日々。(村瀬秀信)

    谷繁と並んで黙々とキャッチボールをこなす高城。谷繁の自主トレは、自宅のある神奈川県で行われており、その門戸を多くの選手達に開いているという。 今さら改めてぐちぐちと言うこともないのだが、ベイスターズの暗黒時代は、そのまま正捕手不在の時代であったと言い換えられる。 そして、その原因について考察するならば、捕手領域における谷繁成分の枯渇、谷繁イズムとの断絶というものが、現在まで繋がる正捕手問題に暗い影を落としている。 ディフェンスの中心となる正捕手。それを流出させてしまうという、開けてはならないパンドラ……ならぬ谷繁の箱。思い起こせば2001年オフ、FAでのメジャー移籍を志した谷繁を、あっさりと中日に流出させるという箱の大解放をしたことで、その後のベイスターズは捕手面におけるありとあらゆる災厄を受けることになった。 それは谷繁だけに留まらず、連続最下位の初年度となる'08年6月には、第2捕手の

    “横浜捕手暗黒時代”最後の希望、高城俊人が谷繁に教えを請う日々。(村瀬秀信)
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    crea555 2013/01/19
  • 野洲サッカーを育てた異端の指導者、岩谷篤人が挑む“最後の選手権”。(木崎伸也)

    身振り手振りをまじえ、野洲高校の生徒たちを教える岩谷。冬の全国高校サッカー選手権大会は、今年で2年ぶり8回目の出場となった。 今年の全国高校サッカー選手権で、個人的に注目している高校がある。滋賀県代表の野洲高校だ。 野洲といえば、2006年の高校選手権の優勝を思い出す方が多いだろう。高3に楠神順平(川崎フロンターレ)、高2に乾貴士(フランクフルト)を擁し、高校サッカーでは異例の魅力溢れるスタイルで初優勝を成し遂げた。 当時、セクシーフットボールというキャッチフレーズもさることながら、野洲を率いる山佳司監督の経歴も話題を集めた。元々レスリングの選手だったが、ケルン留学でヨーロッパのサッカーに魅了され、サッカー指導者の世界へ。教員として赴任した野洲で次々に改革を実行し、無名の公立高校を日一に導いた。山著の『野洲スタイル』に、詳しい経緯が書かれている。 野洲高校優勝のもうひとりの功労者、岩

    野洲サッカーを育てた異端の指導者、岩谷篤人が挑む“最後の選手権”。(木崎伸也)
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    crea555 2012/12/30
  • 古木克明最新報告(トライアウト篇)。30代無職、野球バカの挑戦、再び。(村瀬秀信)

    11月9日のトライアウトには大相撲の峰崎部屋の勧誘ビラも配られた。格闘家に転身したこともある古木は「その道を選ぶならチャレンジしたらいいと思う。人生経験で変わってくる」とコメントした。 どこを落としどころにするのだろう。 ここ最近、そんなことばかり考えていた。 昨年10月に古木克明がプロ野球界復帰を宣言してから丸1年が過ぎようとしていた。 復帰戦となった昨年11月のトライアウトでは、二次で結果を残しはするも12球団からの連絡はなし。年を越え、2月のキャンプイン、3月のペナント開幕、支配下登録期限の7月31日。絶望的に長い夏。クライマックスの秋。音沙汰のないまま巡る季節。それでも背中を押し続ける声。そして、復帰後2度目のトライアウトがやってくる――。 現役時代、長距離砲として天性の才能を有しながら、自らの意志を貫き通す強さを持ちきれず、自分の打撃を見失い、ついでにドライアイでボールも見失い、

    古木克明最新報告(トライアウト篇)。30代無職、野球バカの挑戦、再び。(村瀬秀信)
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    crea555 2012/11/21
  • 「悔いはない」と退団した、73歳、権藤博の“性分”。~中日でも起きた指揮官との衝突~(永谷脩)

    球界からまたひとつ、名物が消えた。 中日はクライマックスシリーズのファイナルステージで3連勝するも、3連敗を喫し敗退。その責任を取らされる形で、権藤博投手コーチが解任された。 今季、権藤コーチと高木守道監督は、投手起用をめぐって衝突を繰り返してきた。おそらく、その亀裂が決定的になったのはファイナルステージ第5戦、2-2の同点で迎えた9回だった。イニングの頭から登板した岩瀬仁紀が、2安打と1四球で満塁とされた場面で、監督は三振の取れる浅尾拓也を熱望したが、権藤コーチは、山井大介の投入を進言した。結果は山井が、代打・石井義人に打たれてサヨナラ負け。怒り心頭の高木監督は「あとはピッチングコーチに聞いてくれ」という捨て台詞をはいた。シーズン中、権藤はこんなことを言っていた。 こちらは雑誌『Number』の掲載記事です。 NumberWeb有料会員になると続きをお読みいただけます。 残り: 566文

    「悔いはない」と退団した、73歳、権藤博の“性分”。~中日でも起きた指揮官との衝突~(永谷脩)
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    crea555 2012/11/11
  • 石井琢朗、広島に愛されて引退へ。横浜ファンが抱く羨望、後悔、感謝。(村瀬秀信)

    1989年のドラフト外で、ピッチャーとして横浜大洋ホエールズ(当時)に入団。投手として勝ち星をあげた選手としては川上哲治以来2人目となる2000安打を達成した。 「今年はクライマックスに行かないといけないんですけど、皆さん知っての通り、琢朗さんが引退を表明しました。皆さん、琢朗さんのために絶対、クライマックス行きましょう!」 ヒーローに選ばれた前田健太がお立ち台でそう叫ぶと、神宮球場はこの日一番の大歓声に包まれた。 この試合の前日にあたる8月27日。広島東洋カープの石井琢朗が今季限りでの引退を表明していた。プロ生活24年。大洋・横浜では中心選手として20年。広島ではスーパーサブとして、若手選手の生きた手として4年。この日までに歴代11位の通算2430安打をはじめとする多くの勲章と、たくさんのファンの心を掴んできた。 この試合前ミーティングで、カープの選手たちの前で引退の報告をした石井琢

    石井琢朗、広島に愛されて引退へ。横浜ファンが抱く羨望、後悔、感謝。(村瀬秀信)
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    crea555 2012/09/04
  • 日ハム入団フィーバーから半年――。ソフトボール出身・大嶋匠の現在地。(加藤弘士)

    鎌ケ谷へ二軍の視察に訪れた日ハム・栗山英樹監督(写真右)と大嶋。灼熱のグラウンドで牙を研ぐ若者の姿は、指揮官の目にどのように映ったのだろうか。 蝉時雨が、絶え間なく聞こえる。千葉・鎌ケ谷にある日ハムの二軍施設。夏でも冷涼な札幌ドームから遠く離れ、強烈な太陽が照りつける灼熱のグラウンドでは、若き力がハングリーに牙を研ぐ。その中に、大嶋匠がいた。体形は心なしか、引き締まったように思える。体重は入団時に比べ、5キロほど絞れたという。 「バッティングについては、6月の終わりぐらいから、ようやく『こういう感じなのかな』というのが出て来ました。ちょいちょい、ヒットが打てるようになってきた。今の課題はストレートを待ちながら、変化球にも対応できるようにすること。だんだん出場機会も増えてきたので、練習していることを、しっかりと試合に出せるようにしていきたい」 真っ黒に日焼けした、いい顔で語ってくれた。

    日ハム入団フィーバーから半年――。ソフトボール出身・大嶋匠の現在地。(加藤弘士)
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    crea555 2012/08/18
  • 日本一諦めきれない男の人生──。古木克明は今もオファーを待っている。(村瀬秀信)

    日々自らの身体に鞭打つようにして激しいトレーニングを続けている古木克明。古木ファンならば……ツイッターの@furukiktakとフェイスブックをチェックすべし! プロ野球が開幕して1カ月。全国各地では今年も連日勝った負けたと、いつものペナントレースが繰り広げられているわけだが、ちょっと考えてみてほしい。我々は何か重要なことを忘れてしまってはいないだろうか。 古木。 そう、古木克明の続報がまるでないのである。 開幕熱も落ち着いた今日この頃、ここで筆者は声を大にして言いたい。数多のプロ野球関係者、そしてスポーツメディアに携わる方々、ファンの人たち、古木忘れていませんか! と。 昨年10月の記事で総合格闘家からの引退と、まさかのプロ野球界再挑戦をぶち上げた古木は、その後2度のトライアウトに挑み、神戸で1安打、千葉では3安打と十分な結果も残し、人曰く「100点」と、やれる手応えもつかんだ。 東山

    日本一諦めきれない男の人生──。古木克明は今もオファーを待っている。(村瀬秀信)
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    crea555 2012/05/03
  • ブーマーはなぜ選ばれなかったのか?殿堂の意義を歪める「感情」と「偏見」。(鷲田康)

    1986年のオールスターで顔を揃えた大打者たち。ブーマー(中)、バース(右)の殿堂入りはならず、落合も2度の落選を経験した はっきり言うが、ベテラン記者と呼ばれる人々の見識を疑う(みんながみんなとは思わないし、思いたくはないが……)。 プロ野球殿堂入りの投票である。 このコラムでも過去に中日・落合博満前監督が1票差で落選したときにその投票の基準に異を唱えたが、今年もやはり首を傾げざるを得ない結果となった。 今年はプレーヤー部門では、精密機械と称されたコントロールを武器に通算213勝をマークした広島・北別府学さんと、同じく広島で“炎のストッパー”と称された津田恒実さんの2人が選出された。 殿堂入りは数字と実績のみで選考されるべきか? 特に注目されたのは、1993年に脳腫瘍のために32歳の若さで亡くなった津田さんの選出だった。 亡くなるまでに津田さんは、286試合に登板、49勝41敗、90セー

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    crea555 2012/01/24
  • 実は言葉の人、落合博満。オレ流語録8年分、一挙公開!(村瀬秀信)

    退任の記者会見にて「中日以外のチームから監督のオファーがあればどうしますか」との質問に対し、「話があれば聞く」と答えた落合博満氏。「初老の男性に戻った。映画館の右の後ろで女房と映画を観たり、温泉にでも行きたいと思います」というコメントも残している 非常に楽になりました。監督という肩書は結構重たい。それを外して、普通の57歳か58歳の初老の男性に戻ったということじゃないでしょうか――。 11月22日。中日ドラゴンズ・落合博満監督の退任会見が名古屋市内で行われた。キャンディーズの解散会見、いや、10月31日にあった橋下大阪府知事の「普通の42歳に戻りたい」発言に続く、異能者たちだけに許された「普通の○○に戻る」発言は、落合博満がドラゴンズ監督としての重責を全うしたことを告げる最後の言葉となった。 思えば監督就任となった'03年10月8日の会見での、「どういうタイプの監督になるかは誰にもあてはま

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    crea555 2011/12/04
  • もっとプロ野球界にガッツポーズを!!「相手に失礼」は時代遅れの言い訳。(中村計)

    先日まで行われていた世界卓球のテレビ観戦にどっぷりとつかってしまった。 それにしても卓球はすごい。 何がすごいかというと、ガッツポーズである。ほぼ一球ごと、ポイントを取った方が必ず拳を握りしめる。ともすれば、ガッツポーズ合戦を見ているような錯覚に陥る。 そのときの叫び声も十人十色。 「ヨーッ!」 「チョーッ!」 「シャーッ!」 「オーッ! オッ! オッ!」 その気持ちもわかる。あれだけ小さなボールを、あれだけ小さなコートに入れなければならないという作業は、言ってみれば、精密機器をつくるのに似た緊張感を強いられる。 わずかな指先の狂い、呼吸の乱れも許されない。それらを御し、思い通りのプレーができたときの開放感。それがガッツポーズとなって表れるのだ。むしろ、ああやってはき出すことで、自分の中で「緊張」と「緩和」の釣り合いをはかってもいるのだろう。 また、ガッツポーズには別の効用もある。観ている

    もっとプロ野球界にガッツポーズを!!「相手に失礼」は時代遅れの言い訳。(中村計)
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    crea555 2011/11/15
  • 仙台が“第二の故郷”になった理由。楽天・山崎武司、涙の退団の経緯。(田口元義)

    10月10日の試合後、「山崎コール」が響き渡るなか、集まった大勢のファンを前に、山崎武司は涙ながらに別れの挨拶を行なった 涙の退団試合から数日後、山崎武司は噛みしめるように今の心境を話してくれた。 「今後の不安はね、全くないんだよ。でもやっぱり、楽天を、仙台を離れることに関しては未練たらたら、あははは!」 あの時は、仙台市民のみならず、プロ野球ファンの誰もが自分の目を、耳を疑った。 10月9日。楽天・山崎が退団を発表――。 突然の自由契約だった。 開幕当初は好調だったが、6月の試合で右手薬指を剥離骨折し戦線を離脱。約1カ月半で現場に復帰したものの、以前から不安を抱えていた下半身の不調もあり成績は下降していく。東日大震災からちょうど半年となる9月11日のゲームで逆転アーチを描いたが、次戦以降は39打数1安打と低迷。そして30日、山崎の名はスタメンから消えた。 自由契約の理由は「チームの若返

    仙台が“第二の故郷”になった理由。楽天・山崎武司、涙の退団の経緯。(田口元義)
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    crea555 2011/10/17