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2007年3月9日のブックマーク (2件)

  • webのフラットさによる暴力はweb自体によって去勢されるという微かな希望

    昨日のエントリの続きです。 前回の内容をものすごい端折ってまとめてみると、 1 テクストは常に「誰か」が書いたもの(「誰か」を想定することなしに、わたしたちは意味を意味として受け取ることができない) 2 そのテクストを「誰が」書いたかは質的ではないが、「誰か」がテクストの有意味性を保障する唯一の砦であるため、「誰か」はすぐさま「誰が」を呼び出してしまう。 といったところでしょうか。 あるいは次のように言うこともできるでしょう。 「誰か」は「誰が」に対し論理的に先行するが、わたしたちは「誰が」抜きで「誰か」を認識することができない。 こういう「厳密には間違っている具象」と「正確だがわかりにくい抽象」が制しあっているような風景というのは色々なところに見られて、わたしはよく三角形のことを考えます。 わたしたちは三角形を見たことがあるでしょうか? 中一くらいまでの子供にそう尋ねると、大抵はき

  • つまりはこういう事なんですよ - 今宵,バーボンハウスで

    キモい記事の簡単なマトメです。 男オタクにすると、なんか、またいらぬ誤解を招きそうだから、府女子で例えますね。 どこにも同性愛者などと描かれていない作品の人物同士のホモセックスを想像(妄想とも言う)して、ましてやそれをマンガや小説にする趣味は「趣味としてキモい」 けれど、その趣味を持つ女性が(男性でも良いですが、まあ、圧倒的に女性が多いので)現実の男性の存在を受け入れ、年齢相応に恋愛もしていれば、その女性は人間としてはキモくない。 しかし、その女性が現実の男性と妄想キャラを同一視したり、ましてやゲイの世界を自分のやおい妄想と同一に思い込むのは、「人間としてキモい」 結局、キモい人って言うのは、未成熟ってことなんじゃないだろうか? 世界と自分のすりあわせが出来ていないから、「キモい」にマジギレして周囲からますますキモがられる。 それが、たまたまオタクと言う受け皿にはまってしまっ