金明秀 Ꮶɨʍ, ʍʏʊռɢֆօօ @han_org ふーん。 “@Kino_Toshiki: 「朝鮮学校無償化に反対している人が鶴橋住民へのヘイトスピーチを許さないための活動をして良いのか悪いのか問題」をトゥギャりました。 http://t.co/AhxSuACboL” 2013-02-27 03:01:29
長男(幼稚園年中)と話していた際、ふと気付いたこと。よく考えてみればごく当然のことだったのだが、今まではっきりと認識出来ていなかったので、ちょっと書きとめておきたくなった。 子供たちや奥様と一緒に、風呂に入った時の話である。 我が家の風呂は、比較的早風呂である。とはいえ、風呂に入りながらも色々と話す。 息子さんとばしゃばしゃお湯をいじりながら、私はなんとはなしに、「今日、幼稚園で何があったー?」と聞いた。この時、彼は「もう、そんなにいろいろ聞かないでよー」という嫌がり方をしたのである。 ん、色々? 私が聞いたのは、「幼稚園でどんなことが起きたか」という一点だけであり、別に「色々な質問」をした訳ではない。そして、この質問をする前にしていた話は、お風呂で遊ぶおもちゃについての話であり、特段何か質問をした訳でもない。 実は、この質問に対して息子さんが難色を示すのは、初めてのことではない。いつもは
テレビを一人で観るようになったのはいつ頃からだったろうか。 昭和30年代の写真を探すと、町角で大勢の人がテレビを見ている風景を見かける。この頃のテレビは、かなりの確率で“みんなで観る”ものだった。一家に一台テレビが普及した後も、テレビはやはり皆で見るものだった。一家に一台しかないテレビだからこそ、“巨人、大鵬、卵焼き”という言葉や“チャンネル争い”という言葉が存在していたのだろう。 視聴番組を巡るコンフリクトがあった = 皆が自分の見たい番組だけ観ていたわけではないということでもある。大人が子ども向けアニメを観ざるを得ない時もあっただろうし、ニュースや時代劇を子どもが観ることもあっただろう。家族という小さな器のなかとはいえ、テレビは一人で観るものではなく、自分が観たいものを観たいだけ観れるものではなかった。 ところが昭和の終わりになると、ひとつの家庭がテレビやビデオデッキを複数保有する、そ
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