幼少の頃から絵が好きで、将来は漫画家志望だった[2]。 大学浪人後にアニメーターを志して上京し、千代田工科芸術専門学校へ入学する。当時はアニメ業界で生活していく覚悟は無く、漫画科の生徒と交流する中で漫画の面白さにも関心があった。漫画家としての夢は、20代の時に講談社で短編漫画を描いた際、自分には向いていないとして諦めている[2]。 専門学校卒業間近になっても就職先が決まっていなかった。学科担当の先生の紹介で、卒業後は土田プロダクションへ入社する。しかし、同社の絵柄が自分に合わないと感じて同業他社の仕事をしていたところ、社内で吊し上げに遭った。自身でも限界を感じたため、1 - 2ヶ月で退社[3]。 その直後に東映動画へ入社。須田正己から原画の描き方や動きのメリハリなどを教わる。初めは動画を担当していたが、『わが青春のアルカディア』(1982年)で動画チェッカー、アメリカとの合作『スパイダーマ