マッカーサー道路は正式には「環状第2号線」の一部。神田佐久間町〜虎ノ門までの開通部分は「外堀通り」として知られている。終戦直後の1946年、戦災復興院が、神田佐久間町から新橋まで約9.2キロ、幅100メートルの道路として都市計画決定したのが始まりだ。GHQが虎ノ門のアメリカ大使館から東京湾の竹芝桟橋までの軍用道路を要求したなどの俗説もあったことから、いつしか「マッカーサー道路」と呼ばれるようになった。 1950年に道路幅は40メートルに縮小されたが、周辺の都市化に伴って用地買収が難航。工事は着工されないまま、道路予定区域は約50年にわたって建築制限がかかり、3階までの建物しか建てられなかった。つい数年前まで、新橋と虎ノ門のオフィス街の間に、まるでモーゼが海を割ったかのように中高層ビルの谷間に低層住宅が連なっている異様な光景を見ることができた。