すでに、コメをめぐる歴史学や民俗学の研究が示すように、この日本列島にはコメを常食としない集団がずっと存在していたし、また日本人が広くコメを食するようになったのは戦時中以降のことであったといわれる。おそらく日本人全体が白米を腹いっぱい食べれるようになったのは、戦後の高度経済成長期以降、たかだかここ半世紀足らずのことでしかない。この意味では、米飯民族というよりも、農学者・渡部忠世の指摘するとおり「米飯悲願民族」だったのである。 (『食の共同体―動員から連帯へ』p16) 米飯悲願民族だったことはいい。でもそれが、どうして今受け継がれているんだろう。食育の気持ち悪さについてで見たように、食育では決まって米飯賛美で、伝統食賛美だ。世代の上の人たちが、戦争の影響もあって米を満足に食べられなくて、「米飯悲願民族」の末裔として育ったとしても、それほど不思議ではない。問題はそれがどうして、今「食育」運動の中
AppleがMacからHyperCardを消した理由についての考察が本家/.にて取り上げられている。 HyperCardのポテンシャルを誰よりも理解していただろうジョブズは、HyperCardを無きものとしてしまった。その後も復活の要望は高く、市場もあったにも関わらず、類似ソフトウェアが登場することは無かった。 理由はHyperCardがAppleの作ろうとしている世界にそぐわなかったことにあるとこのブログでは指摘している。その世界とは、今はほぼ消えつつある「コンピュータを『使うこと』と『プログラミングすること』の境界の薄い世界、パーソナルコンピュータが単なる高価なビデオ付き電話ではなく、自分の頭の中を増幅してくれる端末である世界。そしてそれはAppleの囲い込み戦略が実現し得ない世界でもあったのだと。 HyperCardが存続されていたならば、iOS端末やその他Apple製品は現在のよう
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く