梵語(ぼんご)(古代インド語)のアスラ(Asura)の音写で「生命(asu)を与える(ra)者」とされ、また「非(a)天(sura)」にも解釈され、まったく性格の異なる神になります。ペルシャなどでは大地にめぐみを与える太陽神として信仰されてきましたが、インドでは熱さを招き大地を干上がらせる太陽神として、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神になります。仏教に取り入れられてからは、釈迦を守護する神と説かれるようになります。 像は三面六臂(さんめんろっぴ)、上半身裸で条帛(じょうはく)と天衣(てんね)をかけ、胸飾りと臂釧(ひせん)や腕釧(わんせん)をつけ、裳(も)をまとい、板金剛(いたこんごう)をはいています。
日の出の巻 第八帖 (二二一) 一二三(ひふみ)の食物(たべもの)に病無いと申してあろがな、一二三の食べ方は一二三唱(十七)へながら噛むのざぞ、四十七回噛んでから呑むのざぞ、これが一二三の食べ方頂き方ざぞ。神に供へてから此の一二三の食べ方すれば何んな病でも治るのざぞ、皆の者に広く知らしてやれよ。心の病は一二三唱へる事に依りて治り、肉体の病は四十七回噛む事に依りて治るのざぞ、心も身も分け隔て無いのであるが会得る様に申して聞かしてゐるのざぞ、取り違い致すでないぞ。日本の国は此の方の肉体と申してあろがな、何んな宝もかくしてあるのざぞ、神の御用なら、何時でも、何んなものでも与へるのざぞ、心大きく持ちてどしどしやりて呉れよ。集団(まどい)作るなと申せば、ばらばらでゐるが裏には裏あると申してあろが、心配(こころくば)れよ、十二月七日、ひつくのかみふで。 碧玉之巻 第八帖 四ツ足を食ってはならん、共喰と
アマテル神(天照大御神)の詔のり 健康食(スガカテ・清食)の勧めと万物創成の五化元素 天も地ものどかに移ろい世は全て事もなく静かに晴れた一日、アマテル神は皇子(みこ)のクスヒ(クマノクスヒ 現・熊野牟須美、熊野本宮大社、第一殿祭神)を伴ってフタミカタ(現・二見の浦、三重)の海岸に御幸されました。 親子揃っての久々の遠出で、眼前に突然開けた大海原から次々と打ち寄せる潮(うしお)に二人は身を沈めると、太陽と月の限りなき鼓動が親子を優しく包み込み、身も心も洗い清められて聖なる禊(みそぎ)を済ませました。 この時、お伴のクスヒはふと素朴な疑問を覚えて、すぐ父に尋ねました。 「父ミカド(御門)は、いつもヤフサクルマ(八房御輿、八角形の神のみこし)に乗られて御幸する日本一尊い神様なのにどうして禊(みそぎ)をなさるのですか。神様でもやはり穢れるのでしょうか。」 この時アマテル神は、我が子の微笑ましい質問
●人間の心に、何かの観念が出ると、その観念の型のとおりに宇宙本体から微妙な力が働き出し、その観念の型が、良ければ良いように、悪ければ悪いように、思い方が積極的であれば積極的なものができ、消極的なら消極的なものができる。 ●人間の心で行なう思考は、人生の一切を創る。 ●人間の心のあり方が、結局人生を支配する法則の根本である。 ●実在意識が直接に行なった動作は、そのいかなることも問わず、それを数多く繰り返していると、いつかその動作が、今度は潜在意識の支配で行なわれるようになる。すると、その後の動作は半意識的にか、または無意識的に行なえるようになり、実在意識は、以前のように直接監督の努力をしなくて済むようになる。(中略) だから、習慣的行動というものは、自分の潜在意識に働かされてなすところの行ないなのである。(中略)潜在意識こそは、肉体の建設者で、また広い意味においての人生の建設者である
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