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2007年2月6日のブックマーク (6件)

  • 長居公園、行政代執行 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    昨日は風邪気味で、熱こそ出てないもののずっと調子が悪く、今日は無理かもしれないと思いつつ、ビタミンCをボリボリべてから床に就いた。朝起きたら思いの他よくなっていた。起きたのが少し遅かったので間に合わないかもとも思ったが、出かけることにする。9時ちょっと前に長居公園に到着。既に周囲はバリケードで囲まれていて、警備員が取り囲んでいる。人だかりもできている。以後、12時頃、テント村が完全撤去されるまでの一部始終をずっと見ていた。事の経緯などは「釜パトブログ」などを見てほしい。 【追記】 また、今回の行政代執行にあたり、野宿者と支援者たちが取った行動、その意味などについては、Arisanのノートを読んで欲しい。付け加えるべきことはほとんどない。 野宿者はわがままだ、という声もある。物を知らない人は簡単にこういうことを言う。その人が怠慢だから、ということもあるのだろうが、同時に、行政が不誠実な(ほ

    長居公園、行政代執行 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • 野宿者の居住権──不法なのはどちらか - モジモジ君のブログ。みたいな。

    ある人の家にいきなり893がやってきて、「こんど世界賭博ゆう大会をやることになった。お前のうちが会場になる。(おまえらがいるとジャマで目障りだから)○×日までに出て行ってくれ」という通告がある。拒否すると、真冬のある朝どやどやと893が乗り込んできて、暴力的に住人を外に追い出し、家を破壊した。 こんな事件があったなら、どう考えても(あえてこの表現を使うが)「自然な」反応は「それはひどい」になるはずだと思うのである。ところが、893が警察と市の職員、「世界賭博」が「世界陸上」に、そして、追い出される人が「ホームレス」である、ということになると「しょうがない」が「自然」な反応である……? 当にそうだろうか? もちろん、これは、今朝あった大阪長居公園での野宿者強制排除のことである。*1 あーはいはいそれはひどい893ですねワロスワロス。しかし公園は家ではありませんよね? http://d.ha

    野宿者の居住権──不法なのはどちらか - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • 公園から追い出されたのは「彼等」だけじゃない。 - 想像力はベッドルームと路上から

    長居から戻って - Arisanのノート 長居公園、行政代執行 - モジモジ君のブログ。みたいな。 ホームレスは怖いですねえ - 猿゛虎゛日記(ざるどらにっき) 「ホームレス支援」という文脈からは少し別の視点で。 行政側に正当性を与える言説は、「公園は公共の場所であるから、占有することは許されない」というものである。正論と言えば正論だ。 そう、公園は「公共の場所」、即ち「僕達の場所」である。つまり、その形式や用途に関して、「僕達」が決定権を持っている場所だということだ。 では、現在、当に「僕達の好きに」使える公園が一体どれくらいあると言うのだろう。 例えば多くのパフォーマーがいることで有名な井の頭公園だが、今年からこんな制度が実施されている。 http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/seibuk/inokashira/artmrt.pdf 要するに、「公園で

    公園から追い出されたのは「彼等」だけじゃない。 - 想像力はベッドルームと路上から
  • おだやかなナチ日和 - 一人でお茶を

    戦争中の話など読むと、物資不足が深刻になり空襲がはげしくなるまでは、一般市民は戦争をさして意識することもなく、今と変わらないような生活をしていたのがうかがえる。 これは、ナチに支配されていたドイツも同様だ。ナチというと、その様式美ゆえに映画の中では完成された敵役にされることが多く、またドキュメンタリーでも、当時の光景を伝える際に用いられるフィルムがナチが宣伝用に制作したものだったりするので、当時国民規模でカルト化していたかのような極端なイメージを持たれやすいが、一般人のナチ支持は流動的で、さして政治には関心を持たない大勢の人たちは、ナチ時代も上のすることにぶつくさ言ったりしながら日々の用事をこなしていくという、今の私たちと同じような日常を送っていた。 たしかに一部には、ナチによって弾圧された人々がいた。「国民革命」と称してユダヤ系や共産主義者に代表される左翼系をテロで脅かし、彼らとそ

    おだやかなナチ日和 - 一人でお茶を
  • Freezing Point - カテゴリー差別と嫌悪感

    非モテ系の人間が差別されても、それは「当然だ」と流されてしまい、ほかの差別のように取り合ってはもらえない。 ▼見下されたために過剰な非難を浴び、しかしそれは分かりやすい「差別」とは見えないため、集団で嘲笑されるままになる。 差別は、分かりやすい差別枠があるから差別なのではない。 人間をあるカテゴリーに囲い込み、「見るからに○○だな」「○○は傲慢だから」――勝手なカテゴリー属性で逆に規定してみせたとき、それはすでに差別なのだ。 【逆に言えば、いくら嫌ってもそれは単なる嫌悪感であり得る。】 ある属性をもった人間を「支援の対象」として囲い込むことは、差別的な見下しであり得る。 「○○のくせに」。 私の存在が、人格を持った一個人ではなく、「○○」という劣位のカテゴリーと同一視される。 支援のそぶりを見せていた人間が、物の差別主義者に豹変する。 ひどい猥談をしているモテ男。 その横で、思い詰めたセ

    Freezing Point - カテゴリー差別と嫌悪感
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    トルコ水紀行 -前編 イスタンブール- みなさんこんばんは、地図子です!8月は久しぶりに毎月更新にしようと思います。今までずっと名古屋について書いてきましたが、ワープして・・・ トルコについて書きたいと思います。 2024年6月に念願のトルコに行ってきました。いつからトルコに行きたかったかわから…

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