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ブックマーク / technique.hateblo.jp (34)

  • 「母親のおかげで、ヤクザから恩恵を受けてきた」 - Freezing Point

    宮台真司『日の難点 (幻冬舎新書)』pp.95-6より: そんな母親の構えのお蔭で「自分の母親は世間の母親よりもずっとスゴイ」と思えました。そうした母親の子であったせいで「浅ましい奴」や「セコイ奴」には絶対なりたくないと思うようになったのでしょう。これも「目的」や「手段」ではなく端的な「衝動=感染的模倣」だろうと思います。 もちろん、そんなふうにしてできあがった僕の構えが実利をもたらす面が確かにあります。それはスピノザも言っていることです。僕の場合、売買春やクスリのフィールドワークをする際にヤクザにケツ持ちしてもらってきました。お蔭でこの方面でたくさんの著作をものすることができました。 女の子がストーカーにつきまとわれて困っているというようなときも、警察に頼んだら(ストーカー規制法成立以前だったので)半年以上もかかるところを彼らが三時間で解決してくれることもありました。僕の研究に役立つ情

    「母親のおかげで、ヤクザから恩恵を受けてきた」 - Freezing Point
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2009/05/03
    『いつも「処方箋を出す」のではなく、「うまくやれている自分を誇示する」。』宮台氏に限らず世の中に沢山いる。成功している人はますます気分よくなり失敗した人はますます惨めになる。
  • 「すでに生きているコミットメント」はどこへいったのか - Freezing Point

    の難点 (幻冬舎新書) 作者: 宮台真司出版社/メーカー: 幻冬舎発売日: 2009/04/01メディア: 新書購入: 28人 クリック: 233回この商品を含むブログ (227件) を見る「はじめに」より: 振り返ると、ポストモダン化を予兆して「境界線の恣意性」を問題にした二〇世紀的人文知(言語ゲーム論やシステム理論)から、一九九四年あたりから専門家に知られ二〇〇一年以降人口に膾炙(かいしゃ)した「コミットメントの恣意性」を問題にする二一世紀的人文知へと、転回したことになります。 「境界線の恣意性」とは、「みんなとは誰か」「我々とは誰か」「日人とは誰か」という線引きが偶発的で便宜的なものに過ぎないという認識で、先に述べた相対主義にあたります。かつて流行した「社会構築主義」や「脱アイデンティティ」といった物言いもこの系列に属します。「境界線の恣意性」はコミットメントの梯子外しをもたら

    「すでに生きているコミットメント」はどこへいったのか - Freezing Point
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2009/05/01
    『強度ある他者に感染し、みずからがそういう者であるために、「お前も決断せよ」というのであり、読者は「私もスゴくなりたい」というナルシシズムで感染する。 動機づけが、徹頭徹尾「自意識」の形をしている。』
  • 労働過程を中心化すること - Freezing Point

    社会復帰のためのさまざまな事業や提案がなされているが、そこには「成功した状態」から、できない側を否定する発想しかない。 逆に言うと、「うまくいった側」は、すでに自分を反省しなくていいことになっている。 これは、結果物としての「売れた商品」の側から考える、社会参加の努力を物神に屈従させる発想でしかない。 支援する側もされる側も、「輝かしい成功地点」からのチェックで考えてしまう。だからそれが自意識になり、再帰的な硬直が強まり、入門すらできない*1。 自意識が、対象世界から個人を恒常的にはじいている。 「完成形」を目指すプログラムそのものが、社会参加をダメにする共犯者になっている。 こういう発想しかしない者にとって、最善の「民主的な」あり方は、ひたすらルーズにフレンドリーに受け入れることだが、それは暗黙の抑圧でしかない*2。 状況への分析が拒絶され、誰かを無条件に受容するために*3、ほかの誰かが

    労働過程を中心化すること - Freezing Point
  • 2007-05-01

    講演会での質問の失敗は、私にとって、去勢受容のきっかけになった。 どうしても言いたいことがあるのに、それがうまく言えない、恥ずかしい思いをした。 それは自分にとってどうでもいい失敗ではなく、「言いたいことがある → できない」という順番であり、単に抽象的な「成功したい」ではない*1。 ひきこもりという話題は、私にとって、「殺されてでも譲れない」と気で思えた唯一の考察テーマで、逆に言えば、そういうテーマでなければ、私は内発的に自分の誠意を構成することもできないし、まっとうに社会生活を送っておられる方々に、自分の意見を言う勇気も持てない。 私が、社会参加の努力を継続するには、この「一線を越えた思い込み」がなければ、動機づけとして無理だった。それは、私が意識的にあとから持ってきた動機ではなく、いつの間にか自分の中にインストールされていたものだ。 「不登校」ではなぜか無理だった。不登校自体を肯定

    2007-05-01
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2008/09/07
    『時間が流れることがないために、無為にならざるを得ない』
  • 役割ナルシシズムと、「なかったこと」にされるプロセスの困難 - Freezing Point

    ひきこもりに関連する中間集団では、お互いの関係調整と人物評価のロジックが、自意識と順応主義に支配されている。 結果的な《治療=順応》だけが問題になり、人が《取り組む》プロセスは、主題にならない。 「観察主体」の側は、自分の取り組みプロセスを一切問われない*1。 苦しむ “当事者” が「観察対象」であり、アカデミシャンや支援者が「観察主体」であり、お互いに役割ポジションに同一化し、安定してしまう。 そこに、役割ナルシシズムの硬直した反復がある*2。 “当事者” が社会に順応しても、今度はその人自身が順応者としての役割を手にし、自分の経験した主体の困難は「なかったこと」になってしまう。――その困難をこそ取り上げようとする私は、まさに同じロジックで「なかったこと」にされてしまう。 そこでは、「回復した状態」と「苦しんでいる状態」が端的に対比され、しかも回復者は、「自分は経験者なんだ」という同属

    役割ナルシシズムと、「なかったこと」にされるプロセスの困難 - Freezing Point
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2008/02/27
    『結果的な《治療=順応》だけが問題になり、本人が《取り組む》プロセスは、主題にならない。 』
  • 2008-02-18

    朝起きるたびに、「順応するしかない」を思い出して吐きそうになる。 どこへ行っても、順応強迫のナルシシズムしかない。 「社会参加しなければならない」――着地点が先に決まっていて、あとはそれに合わせてできるかどうかだけが問題になっている。 課題だけが先に硬直して決まっていて、私はそれに合わせるしかない。 私の揺らぎより前に課題だけがある。 私はノイズでしかない。 だったら、生きている人間よりも課題だけが残ったほうがよい。 「生きなければならない」という課題だけがメタに先に決まっている。 《着手》こそが大事なのに。 取り組みのプロセスは徹底して置き去りにされる。 そこでこそ、支援者たちも自分の当事者性を忘れている。 だから追い詰めるばかりになる。 《着手》がなくて、《順応》の話ばかりになる。 「順応できた」の傲慢な自己顕示ばかり。 「生きなければならない」という課題だけを決めて後は人を特権化す

    2008-02-18
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2008/02/27
    『「社会参加しなければならない」――着地点が先に決まっていて、あとはそれに合わせてできるかどうかだけが問題になっている。/《着手》こそが大事なのに。 取り組みのプロセスは徹底して置き去りにされる。 』
  • 2008-02-01 - Freezing Point:単なる順応主義 → 叫ぶ順応主義の幼児性 → 制度分析の成熟

    考えることが含意しているのは、社会契約への何がしかの留保なのである。それは、コミュニケーション能力の枯渇した先に、あるいは、コミュニケーション能力の手前にある。つまり、幼年期である。思考、すなわち、魂の最も高貴な場所であり、公共性そのものであるその場所には、社会から追放された、ものいわぬ子どもがいる。考えること、抵抗すること、それは、ものいわぬ子どもの仕事でなくていったい何であろうか。思考とは何よりも言語(の使用)の抵抗なのだから。 (田崎英明 『無能な者たちの共同体』p.183) 現代の幼児性は、むしろ順応主義の形をしている。 幼児的な言語使用は、ひたすら「順応の誇示」を行う。 空気による支配に甘んずることは、成熟による弊害の一つだ。 空気よりも文脈を読むためには*1、あえて「王様は裸だ」と叫ぶ子供を演ずるような一種の未熟さが必要なのかもしれない。 (斎藤環 「〈空気〉より〈文脈〉を読め

    2008-02-01 - Freezing Point:単なる順応主義 → 叫ぶ順応主義の幼児性 → 制度分析の成熟
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2008/02/02
    『現代の幼児性は、むしろ順応主義の形をしている。』
  • 2007-03-14

    ひきこもっている人は、狂暴な規範的焦燥に監禁された状態。 ▼非常に特徴的なのは、発話が極端にイミのないものにしかなり得ないこと。 語っている自分自身の意味的貧血。 実存の弱まりは、「病気の事件」というよりは、規範・労働環境・人の資質など、さまざまな要因の絡み合った「政治事件」。 価値と優先順位が、内的な文脈の糸が見えなくなる。 ▼それゆえ、個人の賦活化は「政治化」にあたる*1。 ひきこもり支援は、個人の政治化(交渉主体化)を目指す*2。 イデオロギーに巻き込むことは、政治化の硬直した一例*3。 発話行為*4は政治的に組織される。 恣意的で行為遂行的な権威確立(バトラー)があるとして、それとは別の、無意識の欲望にもとづく発話行為の権威づけが必要。 その権威性は恣意的に左右できるものではなく、すでに生きられたものを事後的に権威化するしかない*5。 「構成の欲望」とメタ的分析について譲歩しな

    2007-03-14
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2008/01/24
    『人間の欲望のうちもっとも強烈なもの(のひとつ)は、「反論したい」ではないか。 ひきこもっている人に残された欲望の資源として、「反論したい」が重要だと思う。 』
  • 2007-03-13

    東浩紀氏によれば、規律訓練型から環境管理型に向かう社会において、社会生活は動物化している。 「情報社会の思想」より 情報技術は人間を 動物的には 幸せにするが人間的にはあやしい (中略) 快を増やすが 自由や世界性の感覚を奪う 「とにかく人間的にならねばならない」というナルシシズムはおかしいが、現状としてどのような苦痛があるかは検討されるべき。 ひきこもりに関連しては、「自分の現実をうまく構成できない」という苦しみが問題になる。 動物的な快でやり過ごすこともできないし、周囲の目線を無視することもできない。 「意識的な生活」の必要が残る以上、自分のいる場所で自分の現実を構成しなおす必要があるのだが(「そうするべきだ」という規範ではなく機能的な必要)、それがうまくいかない。 ▼一人でいても苦痛だが、社会生活の緊張関係に巻き込まれるとさらにどうしようもなくなる。(緊張関係を伴わない社会生活はない

    2007-03-13
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2008/01/24
    『自分の現実を構成できない』
  • 2008-01-03

    ひきこもっている人には、アリバイがない(24時間オン)。 「働いている人」に制御不能の畏敬(恐怖)の念をもつ。 一方で、アリバイを作る人を「欺瞞だ」と見ている(太宰治的なもの)。 先日メモに書き付けた言葉:「どいつもこいつも、アリバイ作りを生きている。誰も分析を考えない」。 社会生活を成り立たせるとは、アリバイを成り立たせて見せることだ。 自意識とはアリバイ強迫。 ▼「すべて話してしまう」*1のは、むしろアリバイ確保に見える*2。 ゲームをする(アイテムを取る・点数を稼ぐ)ことは、アリバイ作り。 鍵を手に入れること。 「受容の理由」にありつくこと。 ▼自分の状態への正当化は、心理だけでなく、関係や社会において成り立つ。 目の前のゲームは、歴史的ないきさつを持つ。 正義(ロールズ)を論じることは、すぐれて「アリバイ作り」になる*3。 アリバイ作りしか考えない自意識(ゲーム的ナルシシズム)は、

    2008-01-03
  • 2007-12-03

    【その2からのつづき】 「「ひきこもり」のリアルを知るために 井出草平著『ひきこもりの社会学』刊行記念座談会」(荻上式BLOG) 今回の座談会は、自分の居る場所で自分がどのように組織され関係を維持しているかを分析しない3人が*1、静態的な観察対象としてひきこもりの話をしている。この方針は、「社会にはいろんな人がいたほうがいい」という発想に基づく点でたいへんいたわりのあるものだが、「それを問題にしている自分自身」が、その受容の態度において分析されないまま肯定されており、「ひきこもりを対象化する制度的目線」については、対象化=論点化されていない。目線を体現する自分の位置づけを、分析的に検討する知的作業がまったくない。その拒絶の方針自体が、ひきこもりに不都合な環境を作る。 *1:分析するということは、失態や誤魔化しも素材にするということだ。ディシプリンで居直るところに分析はない。 ここで補助的に

    2007-12-03
  • 2007-11-19

    【その1からのつづき】 「「ひきこもり」のリアルを知るために 井出草平著『ひきこもりの社会学』刊行記念座談会」(荻上式BLOG) この座談会は「ひきこもりのリアル」と題されているが、読者は一定の社会学的知見を得るだけで、「ひきこもりのリアルを語れるようになった」というナルシシズムにひたるだろうか。ここでは「リアル」という呼び水と語られた内容がイマジネール(想像的)に利用され、座談会の参加者までが相互承認に陥ってしまう。必要なのは、その相互承認のロジックを分析することだ。その分析自体がすでにひきこもり問題への着手であり、これは調査事業それ自体とは別枠の事業にあたる。 井出: 研究の終了予定は、家族が2年後、不登校調査が3年後、海外比較が5年後くらいですかね。それくらいで一定の成果は出せるかなと思っています。ここまで行けば「ひきこもり」という現象の輪郭はほとんど描けると思います。 (略) 井出

    2007-11-19
  • 2007-11-17

    「「ひきこもり」のリアルを知るために 井出草平著『ひきこもりの社会学』刊行記念座談会」(荻上式BLOG) 書籍を含め、全文を通読されることをお勧めする。細かいデータや社会学的知見が参考になるし、仮にそれが誤っているとしても*1、その検証作業がまた有意義だろう。 私自身、講演会等で井出氏の情報を参考にさせていただいている。 私が書や上記座談会に言及するとしたら、その趣旨は斎藤環への批判趣旨(参照)と重なる。 つまりここでは、主体の危機がそれ自体として主題になっていない。 ――いや、実は語られている。 macska: たしかに多くの女性は「理想的な身体像」を内面化してダイエットしたりしますが、摂障害はそれとは別だと思います。その別の何かを、わたしはいつもコントロール感と言っているんですが。自分の体をコントロールすることで、不全感から逃れる。 chiki: なるほど 井出: コントロール感と

    2007-11-17
  • 2007-09-14

    町山智浩さんの評を見て期待してたんだけど、がっかり。 【以下、ネタバレ注意】 続きを読む

    2007-09-14
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2007/09/18
    電車男みたいな感じなのかな
  • 2007-08-30

    「実存のもんだいと制度の問題は分けなければならない」とよく言われる(宮台真司)。 私はその上で、「個人の主体化のありかた」が硬直していたり不自由だったりすることを問題化したくて、《制度》という言葉にこだわっている。そういう文脈として、以下の引用を記しておく(強調は引用者)。 三脇康生 「日の現代美術批評とアンチ・オイディプス」*1より 「絵画とは institution に関する事柄である。制度といってもいいのだが、このことばには具体的な、あるいは実体的なニュアンスがある。しかし、社会学の用語としての institution が指すのは、単に具体的、実体的なものだけに限られるのではない。それは、特定の社会の成員の行動のみならず、思考様式が感情のパターンまでをも有形無形に規制する社会的なシステムである。たとえば習慣がそうであり、未開社会のトーテミズムや神話もそうである。」(『宮川淳 著作集

    2007-08-30
  • 2004-12-11

    「バックラッシュ」*1がテーマのチャット大会に腹案を書き、それから編集者のかたに出版企画についてメールを書いていたら、「当事者が発言する(問題に取り組む)」ことについてのちょっとした視野が開けた。 こちらに書いたこととつながる。 (前後の文脈もあるのでここだけ抜くとまずい点もあるが) 「ひきこもりであるか否か」という状態像における帰属ではなく、「論点を共有できるか否か」という論点帰属(?)だけを考えるべき【 → 「自称ひきこもり」】。 当事者であっても敵であり得る。 当事者でなくとも味方であり得る。 属性帰属だけで「当事者発言」を考えると、「お前がひきこもり当事者の典型例と思われては困る。多様性があるし、そもそも物の当事者は不可視かつ無声だ*2」とか、「お前はひきこもり当事者内の多数派だ」とか、さらには「ひきこもり問題はすでにメジャー。うちの問題のほうがマイナーだ」という「マイノリティ自

    2004-12-11
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2007/06/06
    属性帰属だけで「当事者発言」を考えると偽ヒキ問題が発生。『→ 各マイノリティの個別事情を最大限尊重しつつ、同時に「共有できる課題」における連携プレーを探る必要もある。 』
  • 2005-12-10

    教科書の一行目から読んでいく作業は、たとえ強制であっても成り立つなら、子供に新しい動機付けの芽を生成させるチャンスになり得る。しかしそれがうまくいかず、拒絶反応の強烈さのみが「症候的自発性」*1として経験されるなら、無理やりの従順さは、自分の中の(取り憑かれたような)自発性の芽をかえって殺すことになる。 ▼知識と技能は、怒りの酵母の客体的労働条件となり得る。 死にたくなっている人に、「それでも《死にたくない》と思う理由は?」と訊くと、たいてい次の2点が出てくる。 自分が死ぬと、自分を痛めつけた人間たちが喜ぶ。 自分が死ぬのは彼らの「思うツボ」。 死んでいくのが屈辱だから生き延びる。 自分が大切に思い、自分を愛してくれている人が悲しむ。 悲しませたくないから生き延びる。 それよりも、自分の苦痛のほうが上回ったと判断すれば、いや判断自体が成り立たないほど錯乱すれば―― 存在の片鱗として生活圏に

    2005-12-10
  • Freezing Point - 就労と性愛

    友人の窮状を知る。 話を聞くぐらいしかできない。*1 *1:「聞いてあげるぐらいしか」と書いていたんだけれども、「〜してあげる」という言い方がおかしいと思った。 こっちだって彼女の話を聞きたいのだ。 → こうした能動性は誰に対してでも湧くわけではない。 やはり自発性の話になる。 性的コミュニケーションに参加できない人間は、性的コミュニケーションから排除されるだけでなく、「排除されている」という事実そのものによってさらに差別・軽蔑され、二重に排除される。 【もてない人は、単にもてないだけでなく、「もてない」という事実によってさらに差別的に排除される、という二重の排除がある。】 宮台真司氏は、性的コミュニケーションに参加できない男に極端に非寛容だが*1、これは「仕事をしない男はクズだ」という説教と同じでは? 「ニートと非婚は同根」という言及はいろんなかたがされているが*2、ニートが「働かないの

    Freezing Point - 就労と性愛
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2007/05/30
    ブクマを使ってなかった頃に読んだエントリも発掘ブクマしといた方がいいかも。
  • ■ - Freezing Point

    長期にひきこもっている家庭では、社会復帰を話題にすることは、トラウマをそのまま話題にすることに等しい。 沈黙でようやく維持されているものについて、「話題にしてしまうこと」。 社会生活を続けている人にとっては、「社会に関わっていれば嫌なことがあるかもしれない」というのは分かっても、社会参加を話題にすること自体がトラウマに抵触するとは思えない。 社会参加とは、「頑張ればできること」でしかない。 話がまったく合わない。 【追記】: それが心理的なダメージの問題であるとしても、だからといってケアされるべき問題であると決まるわけではない。ベトナム帰還兵は補償を得ているが、ひきこもっている人は従軍したわけでもない(言うまでもなく、このような比較自体が激怒を誘う)。 ▼社会の現状に、そこで生きる人を痛めつける事情があるとしても、どのようなダメージが優先的にケアされるべきか、どのような構造的問題から順番に

    ■ - Freezing Point
  • Freezing Point : ■「文脈の政治に負けている」

    ひきこもり系の人は、周囲の文脈に順応的にふるまうことがひどく難しい。 単に迎合するのではなく、積極的に文脈を制作していく方向の参加*1を続けるためには、主意主義的な固執(説明しようのない必然性の感覚)がどうしても必要になる。 【参照:「アーティストにとってのオブセッションに相当するもの」】 ジジェクがパスカルを通じて語ったような「形式的順応」も、完全な空洞のままでは限界がある。 主体の側があまりに弱い状態にあり、一方的にはじかれている間は、情報が情報に見えておらず、「理解する」という営みが成り立たない。 積極的な関与(カウンターの発話)がなければ、「理解」という営みが機能しない。 ▼「理屈っぽくはあるが最終的にはおバカさん(やられっぱなしのお人好し)」という、ひきこもりにありがちな自滅的な人格パターンは、流動性の高い「文脈」に乗れない哀れな姿に見える。 「文脈の政治に負けている」というイメ

    Freezing Point : ■「文脈の政治に負けている」