現在実家がある和歌山県におります。今日は、和歌山電鉄貴志川線終点の貴志駅に行ってきました。この駅にはこのような張り紙がはってあります。 これで、ご存知のかたにはお分かりでしょうが、この駅の駅長は、ねこなのです。駅前の売店の飼い猫だったタマが、一年前この無人駅の駅長に就任しました。 貴志川線は元は南海電鉄貴志川線だったのですが、年間5億円もの赤字で、廃線が決定していました。ところが、地元住民の熱心な運動によって、存続されることになりました。新たに和歌山電鐵という会社が設立され、運営は岡山の運輸会社が請け負うということで、2006年4月に再出発となったのですが、まだまだ状況はきびしいようです。 民鉄初、ネコの駅長誕生へ 駅長は三毛猫の「たま」・和歌山電鉄貴志川線貴志駅に猫の駅長が就任 これが、その駅長のタマです。 お正月ということもあるかもしれませんが、駅長の周りは、写真をとったりなでたりしよ
アスペルガー者は「冷たい」「身勝手」などといわれることが多い。 だが、それは本当にアスペルガー者に責任があるのだろうかということをふと考えた。 だって、家中アスペの我が家では何も問題なくコミュニケーションがとれてるんだもんね。 さて…と、 アスペルガー症候群者は「冷たい」「身勝手」などと言われるケースの多くがやりとりで定型発達者の要求する回答をしないことによるものだ。 なにか相談に乗ってもらったとき(心配してもらったとき、)「あとで連絡してね」と言われたら、アスペルガー症候群者が定型発達者にまるで配慮しない場合では単に連絡するという行動に出る。 このあたり他者と私とAS(アスペルガー症候群)のしろさんが非常にわかりやすい実例を出してくれているので以下を参照されたい。 「心配してくれてありがとう」 http://asshiro.seesaa.net/article/74043071.html
先月は定型発達者について考えることが多かった。 というわけで、年が明けてもしつこく定型発達者研究シリーズを続けてしまおう。 普通に会話しているつもりでも、訳のわからないうちに定型発達者の機嫌を損ねてしまったという経験のあるアスペルガー者は多いだろう。 そこには言語というものの根幹に関する理解の違いが関わってくる。 アスペルガー者は言語を事実や用事の単なる伝達手段として使っているが、定型発達者は言語を感情のやりとりに非常に多用しているのである。 さて、10日ほど前だっただろうか、息子から、とある質問をうけた。 ○○を断るときに定型発達者的にはどういう回答になる? というものだった。 飯を作っている最中にいきなり言われても急には出てこない。 当たり前だ、この辺は頭脳にデータベース化して普段、定型さん対応しているのだ。 で、家の中ではデータベースを起動していない! 急いで起動し頭の中を検索し答え
アスペルガー者と定型発達者では基本的な会話の指向性が違うのではないかと私は思う。 さて、 「他者と私とAS(アスペルガー症候群)」のしろさんがお母様と会話が続かないという話をされていた。とても端的な例だと思うので少し引用する。 私と母の例で言えば、 母「疲れた」 私「寝れば?」 母「頭痛い」 私「薬飲めば?」 母「忙しい」 私「仕事減らせば?」 こんな感じです。 こういうとき「大丈夫?」と声をかければ、「うん、なんとか」等と会話が続くそうなのですが、私のような返事の仕方だと、母は「言ってることは正しいんだけど、会話が止まってしまう」と言っていました。 会話が止まってしまうとどういう不都合があるのか、私には分からないのですが、定型発達の人々はこういう雑談を好むようです。 この辺のかみあわなさは定型発達者が感情への対応優先で会話することを欲し、アスペルガー者が問題への合理的対応優先で考えて回答
本年もよろしくお願いいたします あけましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたしますm(__)m 2008年1月1日 sync ホテルの部屋から ホテルの部屋からP905iで富士山が綺麗に撮れました。 KY絡みで ホテルの部屋に届いた朝日新聞朝刊。 その27面(文化面)に中村真理子さんが書かれたコラムがありました。 「"RE"の時代」というコラムです。 今日から連載が始まるそうで、"RE"で始まる言葉に関して文化・社会を語るコラムになるそうです。 今日の"RE"は「REACTION-反応」に付いてでコラムの内容はKY、つまり空気を読むことについて語っています。 小島よしおの話や安倍前首相の話もありますが、スクールカーストについて触れているのはびっくり。 一部引用します。 最近の学校には新たな「カースト」ができあがっているという。勉強やスポーツの序列を排除した結果、「人気競争とい
http://anond.hatelabo.jp/20071229004611 リア充が憎まれるのはモテるからとか相手がいるからではない。 最低でもその部分は本質ではない。 幼少期から思春期にかけていじめられ続けたとか親から虐待され続けていた奴が非モテの中の比率の大半を占めてると思う。 で、いじめの場合だといじめた側はトットと彼氏彼女作ったりとっかえひっかえやって世の中うまく渡ってる。 自分たちは彼らにいじめられてぐちゃぐちゃにされたのから立ち直れなくなってる間にぐちゃぐちゃにした側はいい思いばかりしている。 世間から置き去りにされてる自分らはなんなんだ?! いじめにしても虐待にしても、そういうルサンチマンを持ってしまった所から這い上がるのには、日本は要求される自己責任が厳しすぎる。 今でも「いじめられるのはいじめられた側が全部悪い」って暴論が世間でまかり通ってるような土地柄だから仕方ない
お笑いコミュニケーション化社会 Communication | Society 正月番組におけるバラエティ番組の多さには毎年うんざりさせられるが、ドラマも音楽もスポーツもそれぞれ興味関心が異なる中、老若男女の家族が集まる団欒の場において、概ね共通して観られるジャンルがお笑いであるというのは確かである。「広告β:お笑いというイデオロギー?」でも、お笑い芸人の一機能は「マスコミュニケーションの最後の砦」であると指摘されている。 2007年は「KY」という言葉が流行語の1つにも挙げられたが、昨年終わりにちょっとした思いつきで作った「空気読み力テスト」を何故かあちこちで取り上げて頂き、「何故空気を読むことがこれまでよりも重視されるようになったのか」という質問を頂く機会が何度かあった。そのときに答えたことにも通じるが、近年のお笑いの流行と、空気を読むことの重要性に対する再認識はどこかで繋がっているよ
お笑い芸人と呼ばれる人を、テレビでずいぶん多く見るようになったと思う。 調べると、いまはお笑い第五世代ということで、単にブームを 繰り返しているだけなのかもしれない。こういう話は厳密な比較が難しい。 ただ、最近はジャニーズ系芸能人も笑わせるスキルに熱心な印象がある。 お笑い芸人というのは、企画的には非常に使いやすいものだろう。 政治的文脈には属さず、特定の価値観を代表するようなものではない印象がある。 場合により老若男女すべてに通じる、マスメディアの必殺アイテムになりうるだろう。 養成所のようなものも整備され、芸人が安定供給されてくる状況にもある。 もちろん例外も存在する。ダウンタウンの松っちゃん、爆笑問題の太田、 あるいはビートたけしといった人たちは、お笑いというジャンルでありながらも 風刺の効いた笑いを起こすことで、その行為自体になんらかの価値観が含まれている。
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