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2020年1月21日のブックマーク (2件)

  • デリヘル嬢した経験を盛らずに書く。

    但し、もう十数年前の話で、しかも短期間(2ヶ月半くらいかな)しかしていない。 当時の私のスペック22歳大学四年生。低身長痩せ形(しかしピル飲んだら短期間のうちに急激に太ったが、都会で徒歩行動していたお陰で引き締まってもいた)家族構成は、父リストラされかかりの会社員、母リストラされかかりのパートタイマー、非正規社員(失業しがち)の弟、やたら金のかかる部活をしてた妹、認知症の祖母。容姿レベルは、お客さんに「ブスが来なくてよかったー」と、ほんのり喜ばれる程度。お目々ぱっちり、美肌、貧乳。通っていた地方大学の近所に一人暮らししていたが、デリヘルをやっていた時だけは東京23区内の家賃6万3000円の部屋に住んでた。デリヘルをした動機切実にお金がなかった。引っ越したかったから。月経困難症の治療費を稼ぐため。デリヘルという職業への単純な興味。外見のイメージでやたら潔白だと思われがちだったこと。そんなイメ

    デリヘル嬢した経験を盛らずに書く。
  • 斜めからみる「日本のポストモダン教育学」/稲葉振一郎 - SYNODOS

    の人文社会科学における「ポストモダニズム」の格的受容はいつごろはじまったのであろうか? 80年代初頭の浅田彰の華々しい活躍はとりわけ印象深かったが、もちろんそれに先立つ1970年代に、「1968年」の余燼冷めやらぬなか、フランス文学出自の書き手を中心に、雑誌『現代思想』や『エピステーメー』などを拠点としてジャック・デリダやミシェル・フーコーらの紹介が精力的になされてきた。 しかし歴史学や社会学のアカデミック・サークルのなかで彼らの業績が表だって踏まえられ議論されるようになるのは、格的には1980年代以降のことである、といってよいだろう。流行に弱い社会学では、浅田の格的デビューにわずかに先立つ1980年に、デリダ、フーコー、そしてとりわけジャン・ボードリヤールを踏まえた内田隆三の「〈構造主義〉以後の社会学的課題」(『思想』676号)、さらにJ・A・オースティンの言語行為論とフーコー

    斜めからみる「日本のポストモダン教育学」/稲葉振一郎 - SYNODOS