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2011年5月7日のブックマーク (5件)

  • 岸田國士 笑について

    笑うことのできるのは人間だけであります。勿論、「花笑い、鳥歌う」という言葉もありますけれども、これは形容であります。ときどき、例えば、馬が笑うというようなことを言うこともありますけれども、これは人間が笑うときとよく似た表情をするからそう言うだけのことで、人を笑わせ、又は人に笑われるのは人間に限られているということをまず申上げておきたい。そうでない場合は、人間が手を加えたもの、又は人間の真似をするもの、例えば猿のようなものに限られています。下手なおかしな音楽、滑稽な話などというものがその笑いの対象になります。「笑う門には福来る」と昔から日ではよく言われておりますが、これは笑いというものが人生に取つて何か徳になるもの、人間の幸福と関係があることを証明しています。それは一体何故でしようか。極く常識的に考えて見ても、笑いのない人生は暗く冷たい。そして不健康であるように思われます。笑いは少くとも人

    delhicurry
    delhicurry 2011/05/07
    「本質的に笑うべき人間の欠点は虚栄心だ」と、ベルグソンははつきり言い切つております ベルグソン、笑いの泰斗でもあり、分類のみでは飽き足らない、機能主義者でもあった。
  • 織田作之助 私の文学

    私の文学――編集者のつけた題である。 この種の文章は往々にして、いやみな自己弁護になるか、卑屈な謙遜になるか、傲慢な自己主張になりやすい。さりげなく自己の文学を語ることはむずかしいのだ。 しかし、文学というものは、要するに自己弁護であり、自己主張であろう。そして、自己を弁護するとは、即ち自己を主張することなのだ。 私の文学は、目下毀誉褒貶の渦中にある。ほめられれば一応うれしいし、けなされれば一応面白くない。しかし一応である。 なぜなら、毀も貶も、誉も褒も、つねに誤解の上に立っていると思うからだ。もっとも、作家というものは結局誤解のくもの巣にひっ掛った蠅のようなものだ。人が自分を誤解するまえに、自分が最も自分を誤解しているのかも知れない。 私がこれまで耳にした私に関する批評の中で、一番どきんとしたのは、伊吹武彦氏の、 「ええか、織田君、君に一つだけ言うぞ、君は君を模倣するなってことだ」 とい

    delhicurry
    delhicurry 2011/05/07
    私は、人が十行で書けるところを、千行に書く術を知っている――と言える時が来るのを待っているのだ。十行を一行で書く私には、私自身魅力を感じない 文章家は押し並べてそうだったはずなのだ。
  • 織田作之助 わが文学修業

    delhicurry
    delhicurry 2011/05/07
    西鶴とスタンダールが似ていることを最初に言ったのは私である/ スタンダールもアランも私には大阪人だ。 会話が地の文と溶け合う時、それを騙っているのは何か(恐らくは言語そのもの)。
  • 織田作之助 眼鏡

    delhicurry
    delhicurry 2011/05/07
    生理学的にいっても、眼の良いものは、頭が良いにきまっている。 眼鏡萌狂が想像だにされなかった70年前。
  • 織田作之助 文学的饒舌

    delhicurry
    delhicurry 2011/05/07
    「競馬」もあれで完結していない。あのあと現代までの構想があったが、それを書いて行っても、おそらく完結しないだろう。 ヒロポンを打ち続けて、<文><学>へ、か。