ヤクルトスワローズの初優勝がかかる大一番。紆余曲折を経てそのマウンドに立った松岡弘は、シーズン中に約1カ月間も登板機会を与えなかった指揮官・広岡達朗に対してどんな思いを抱いていたのか。「僕の野球観の8割は広岡さんの影響」――1978年の日本一の原動力となったエースの言葉から、冷酷や厳格といったイメージを超えた「人間・広岡達朗」の素顔を探った。(松岡弘編の#4/#1、#2、#3へ)※文中敬称略、名称や肩書きなどは当時 優勝決定戦で広岡達朗が見せた「情」 1978年10月4日、マジック1で迎えた対中日ドラゴンズ24回戦――。球団創設29年目にして初となる大一番のマウンドに立ったのがエース・松岡弘だった。 「5回ぐらいからかな、“胴上げ投手になりたいな”と思い始めたのは……。初回にいきなりヒルトンの先頭打者ホームランが飛び出して、その後にも3点。いきなり4対0になって、相手打線もヤル気がないとい