オーストラリアに生まれ、日本に40年以上暮らした歴史学者が、2011年3月11日、宮城県で被災した。彼はその日を、そしてそこから4年を、どう過ごし、考えたのか――。
2015-03-11 妹は東電の賠償金で家を建てて、相馬市役所は新庁舎の建設工事中 私の実家は相馬市だけど、下の妹夫婦は義弟が第一原発に勤めていた。東電の子会社で第一原発の施設管理を行う警備会社に勤めていた。その関係で大熊町の第一原発のすぐそばに住んでいた。 4年前の3月11日、第一原発が施設警備どころの話ではなくなったので、妹夫婦と1歳の姪の3人は大熊町から避難することになった。 相馬の実家や妹への電話は全く繋がらず、東京の私は不安だったけれど、ネットしかやることがなかったので、Twitterで「原子力空母ロナルド・レーガンがキタ━(・∀・)━!!!!」とかつぶやいていた。 相馬の実家と1回だけ電話がつながって「実家は無事。妹一家は福島県田村市に避難している。義父は消防団なのでまだ大熊町に残っている」という情報を聞いた。その後、テレビをみていたら避難区域が拡大されて田村市も避難区域になっ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く