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ブックマーク / aboutagirl.seesaa.net (30)

  • 『虫と歌 市川春子作品集』市川春子: Lエルトセヴン7 第2ステージ

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  • 『ハレルヤオーバードライブ』第1巻 高田康太郎: Lエルトセヴン7 第2ステージ

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    dododod
    dododod 2009/11/19
    "ある特定の期間もしくは空間の最適化を第一義にしているという印象"
  • 『キャプテン』完全版 第3巻・第4巻 ちばあきお: Lエルトセヴン7 第2ステージ

    少し前の話、小説家の長嶋有(いやブルボン小林だったっけ)が、文芸誌のアンケートで他の作家に、マンガ『キャプテン』の歴代キャプテンでは誰派か、みたいなことを尋ねていたけれど、当の長嶋はいったい誰派だったのか。もしかしたらどこかに書いていたりするのかもしれないが、目にした記憶がなく、ずっと気になっているのは、自分の場合は断然、丸井派だからである。そして経験上、丸井派の人間にはあまり出会ったときがないのを残念に思っているためだ。いや、たぶん近藤派には負けていないような気もするが、やはり多数は谷口派であり、次いでイガラシ派という感じではないだろうか(個人的に長嶋は近藤派なんじゃないかとにらんでいる)。たしかに、ストーリーがもっともドラマティックなのは谷口がキャプテンの編だし、試合内容の濃さでいうならイガラシがキャプテンの編を選ぶ。もちろん、近藤がキャプテンの編も、ついに名門校となってしまったがゆえ

    dododod
    dododod 2009/11/02
    キャプテン読みたくなった。プレーボールとごっちゃになってストーリーよく覚えてないw
  • 『君に届け』第9巻 椎名軽穂: Lエルトセヴン7 第2ステージ

    たとえば『君に届け』のストーリーについて、ピュアであるというような修辞を用いるとき、それはヒロイン、黒沼爽子の純粋が周囲の人物たちにいかなる影響を与えたか、を指すべきだと思う。当然、その周囲の人物たちのなかに風早も含まれているにはいるわけだが、爽子と風早の、つまり一対一の関係性においては、むしろ、自己評価の低い人間にとっての恋愛をどう描くか、ということに作品の重心がおおきいことを、この9巻はうかがわせる。にもかかわらず、ここにきてピュアであるピュアであるばかりしか述べないような感想は、たんなる思考停止にすぎない。たしかに、それまで恋愛を知らなかった人間の恋愛があらわされている、こうした観点に立つのであれば、爽子と風早の関わりをピュアであるというふうに見ることはできるだろう。しかし、必ずしも初心であること(だけ)が二人をすれ違わせているのではないというのも、おりおりのモノローグを含めた言動に

    dododod
    dododod 2009/09/16
    "純粋であることをいわば叩き台にしながら、決してピュアの一言には単純化できない心理を作中の構造に滑り込ませたうえで"
  • 『尾玉なみえ短編集 脳酸球』尾玉なみえ: Lエルトセヴン7 第2ステージ

    ギャグ・マンガについて、ああ、これ、可笑しいや、以上のことを述べるのは、たいてい難しい。ましてや、尾玉なみえの場合、エキセントリックなアプローチはおそらく、計算尽くでありながら、その尻尾を掴ませない、要するに、頭の良さをまったく隠してしまっているところが、また厄介なのである。いずれにせよ、異才であるのは間違いなく、たとえばこの短編集『脳酸球』は、たんに単行に入っていない作品をまとめただけの内容にすぎないのだけれど、あたかも傑作選のような純度を保ちながら、ヴァラエティに富んでいるのが、おそろしくいかしているのだった(集英社や秋田書店、竹書房の雑誌で発表されたものを、講談社が出す、というのも一種のギャグになっているだろう)。まずは冒頭の「燃えよセールス!!」、最初のヴァージョンの3話分を読まれたい。これ、1話目と2話目は、コントの台としてそのままコメディアンが演じても構わないぐらい、よく出

  • 『WORST』第22巻 高橋ヒロシ: Lエルトセヴン7 第2ステージ

    現在の『WORST』には、『クローズ』や『QP』の作者に求めるべきものはもう、ほとんど描かれていないのかもしれない、というのが正直なところで、じつは先般、総集編が出たのを期に、アタマのほうを振り返ってみたのであったが、そこで登場人物の一人が山隆一郎の『GOLD』を読んでいたことにあらためて気づかされたのはともかく、作品のつくり、そうして受ける印象自体が、当初と今とではかなり異なっているように感じられたのだった。すくなくとも、月島花という純粋が、理不尽な暴力と、正しく対位になるかっこうからはそれていっている。もちろんそれを、高橋ヒロシというマンガ家にあたらしく描きたいことが生じたからだとは、十分に解釈できるだろう。しかしながら、その、うしろからやってきた部分が、どうもいけていない、と個人的には思われるのである。おそらく、不良少年をベースとして、欧米のギャング映画みたいな、アウトローの倫理、

    dododod
    dododod 2009/02/08
    わかるわかる
  • 『Boichi作品集 HOTEL』Boichi: Lエルトセヴン7 第2ステージ

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  • 『METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS』伊藤計劃: Lエルトセヴン7 第2ステージ

    この『METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS(メタルギアソリッド ガンズ・オブ・ザ・パトリオット)』は、同名のテレビゲームを伊藤計劃がノベライズしたもので、あらかじめ断っておくと、原作そのものは未プレイであるし、他のシリーズに関しても大昔にMSXだかで出てた初期のやつを途中までやった経験があるぐらいで、つまりほとんど知識がないに等しい身なのだが、それでも読んで、おもしろかった。おそらく原作のファンには親しみがあり、魅力的であるに違いない固有名詞や設定を共有してないにもかかわらず、それらの描写から拡がってゆくテーマに引き込まれたためだと思う。テーマというのが大げさであれば、以前に読んだ伊藤の『虐殺器官』に含まれていたのと同一のニュアンスと言い換えてもよいような、要するに、緻密に管理された世界=戦場で、兵士が人として生き延び、使命をまっとうしようとする、こ

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    dododod 2008/06/20
  • 『333のテッペン』佐藤友哉: Lエルトセヴン7 第2ステージ

    小説新潮五月号別冊 Story Seller』掲載。漠然とした印象ではあるが、このところ、とくに目新しいヴァリエーションが続々と発見されているというわけでもないのに、世の中では、以前にも増して物語の価値が高騰しつつある感じを受ける。田透が新書『なぜケータイ小説は売れるのか』のなかで〈いつ登場するか分からない「新しい物語」を待っているだけでは、今現在ニヒリズムに陥っている、生きている人間は誰も救われない。/ ゆえに、既成の価値観、既成の物語を反復し続ける「小さな物語」もまた生産され続けなければならない〉と分析しているのも、つまりはそういう現代の雰囲気なのかもしれないが、いずれにせよ、平穏無事で幸福な生活が描写されているだけではとても退屈だから、あるいは平穏無事で幸福な生活を魅力的に描写するのはたいへん困難なので、とりあえず、人が病んだり、死んだり、壊れたりすることが、物語の成立条件として

    dododod
    dododod 2008/04/17
  • 『金剛番長』第1巻 鈴木央: Lエルトセヴン7 第2ステージ

    もしかしたら反動的なことを書くようだが、鈴木央の『金剛番長』は、ギャグを眺めるのに近しい斜めからの視線で受けとるのでなければ、熱い、とか、燃える、とかの評価を前提にし読まれ、漢(おとこ)というタームをふんだんに使い語られるべき作品、マンガなのかもしれないけれど、個人的には、いまいち、こう、かっと盛ってくるものを得られず、漢といったところで、今日のサブ・カルチャーにおいては、中身の乏しさを形容するのに似た空虚なレトリックとして使われることが多く、それが相応しくあるのは、やはり、ちょっと、まずいだろ、と思ってしまう。ここで、学園マンガというか、ガクランもの、とりわけ番長ものの歴史を振り返りたく、引用したいのは、横山光輝の『あばれ天童』の文庫版1巻に付せられた飯城勇三の解説である。飯城は、その、70年代半ばに発表された横山にとっては異色にあたる番長ものに対し、〈私は作を連載中に愛読したのだが、