まずこちら、1933(昭和8)年8月23日発行のアサヒグラフ。表紙を含め、第一の特集は関東防空演習です。そう、信濃毎日新聞の社説で桐生悠々がこき下ろした演習です。煙幕に包まれる東京から。 煙幕に包まれた日本橋方面、と説明にあります子供たちもおもちゃのガスマスクで見物煙幕展張や模擬火災の消防活動などあった様子です夜間は灯火管制と探照灯、高射砲の対応です 1933(昭和8)年当時、まだまだ航空機は発展途上でした。複葉機が飛び回るようなころであれば、当時の高射砲も灯火管制も有効だったでしょう。 4年後の1937(昭和12)年3月に防空法が成立、空襲下での民間人による消火活動が義務付けられました。施行は日中戦争開戦後の10月となります。当時の想定は空襲があってもゲリラ的な数機程度によるもので、爆撃されてもその密度は隣組に1-2発という程度。まあ、これなら協力しあえばどうにかなったかもしれません。
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