「情けないというか、悲しい」 いくつもの命を救ってきたベテラン救急医の口ぶりには、悔しさがにじんでいた。 世界でも類を見ない化学テロ、地下鉄サリン事件。 多くの市民に猛毒のサリンがまかれた。しかし、誰がどう被害に遭い、どんな治療を受けたのか。その後、どのような不安や後遺症を抱えながら過ごしているのか。被害者の視点に立った記録の保存や検証はいまだに行われていない。 なぜそうなったのか。26年前のあの日からひもといてみたい。 (ネットワーク報道部記者 馬渕安代 解説委員 山形晶) 静かな朝だった。 1995年3月20日、東京・中央区の聖路加国際病院の救急センター。その日、現場を任されていた石松伸一医師は、患者のいない救急外来で仕事を始めようとしていた。 消防からの電話が鳴った。受話器を取った看護師の向こう側に見えた時計は、午前8時16分を指していた。 「地下鉄日比谷線の茅場町駅で爆発火災が発生
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