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  • 和泉式部  恋愛歌人 そのバラ色の生涯 - 京都案内  こうへいブログ  

    誰もが振り返る美貌 平安時代、王朝の三才女と呼ばれたのが、清少納言と紫式部、そして和泉式部です。 この三人の女流作家は、ともに、一条天皇の中宮のもとに女房として出仕していました。 まず最初に、中宮・定子に仕えたのが清少納言で、その後に中宮となった彰子(しょうし)には、紫式部と和泉式部が順に仕えています。 定子サロンに変わり、新たにできた彰子サロンでは、紫式部と和泉式部の二人は才名の存在であり、絶妙な文の書き手としての才能を発揮していました。 そして恋愛歌人と言われた和泉式部のほうは、和歌の天才でもあり、町を歩けば誰もが振り返るほどの美貌に恵まれていたのです。 そんな彼女は、やはり、その時代の最高権力者であった藤原道長から「浮かれ女」と揶揄されるほどの激しい情熱と華の持ち主でもあり、男から男へと、業の深い恋愛を遊行したといいます。 和泉式部が最初の結婚をしたのは、彰子に仕えるずっとずっと前の

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    dorifamu
    dorifamu 2021/02/16
    恋多き女性に感じますが、真剣な恋だったのですね
  • 寂光院  大原の里と建礼門院 貴女の笑顔が見たいから - 京都案内  こうへいブログ  

    聖徳太子と小野妹子 ゆかりの古刹 洛中から十数キロ離れた大原の里にたたずむ寂光院。 聖徳太子が自ら造った地蔵菩薩像を安置して、父・用明天皇の菩提を弔うために開創しました。 大原には太子が創った寺院が数多く有り、実光院の地蔵菩薩や通称蛇寺の阿弥陀如来も太子刻の伝承を持ちます。 それは、大原の里がかつて小野郷と呼ばれていて、太子に仕える小野妹子の領地だったことに強く影響を受けているんですね。 太子に絶対の信頼を得ていた妹子は、自分の領地に太子開創の寺院を次々と建立させていくのです。 京都三大漬け物のひとつ「しば漬け」 京都でも有数の観光地となった大原は、街道をはさんで右へたどれば三千院、左へ草生川に沿って歩いていくと寂光院や大原温泉があり、大勢の人たちで賑わっています。 それでも、紫蘇(しそ)畑のあるのどかな田園風景は広がっていて、その名の如く、「寂」の「光」が新緑や紅葉に照り映えた風雅な趣を

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    dorifamu 2019/10/17
  • 宝厳院  漱石が心癒された獅子吼の庭 「京に着ける夕」 - 京都案内  こうへいブログ  

    嵐山の麓にある紅葉の名所 朱色に燃える楓に包まれた獅子吼の庭。寛正2(1461)年に創建された宝厳院は、嵐山・天龍寺の塔頭寺院です。 江戸時代に京都の名所名園を収録した「都林泉名勝図会」にも紹介されている(獅子吼の庭)。ここは、嵐山の借景を取り入れた京都でも有数の紅葉の名所です。 獅子吼とは「仏が説法する」という意味であり、自然にふれることにより人生の真理・正道を肌で感じることを「無言の説法」といいます。 漱石 「京に着ける夕」 明治期の日を代表する作家の夏目漱石が宝厳院を訪れたのが、明治40年のことでした。 それは漱石41歳のときで、彼にとって二度目の京都旅行でもありました。 そして、この旅で見聞きしたことが、しばらくして、小説「虞美人草」として朝日新聞に連載されることになります。 この「虞美人草」とは別に「京に着ける夕」という短い文章があるのですが、京都の黄昏時を見事に描写した内容で

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    dorifamu 2019/09/29
  • 大徳寺  たやすくひるまない臨済禅の拠点 - こうへいブログ  京都案内 そして スラスラと流れるような文章が書けるようになりたくて

    屈辱に耐えて発展した名刹 臨済宗大徳寺派の大山である名刹・大徳寺は、戦国武将たちが創建した数多くの塔頭を持ちます。 花園上皇や後醍醐天皇の手厚い援助を受けていた大徳寺は、反体制側の足利将軍家が天下をとる時代になると理不尽な扱いを受けるようになりました。 「官の寺」であった天龍寺や相国寺に対して、「野の寺」の立場にあったのです。 https://photo53.com/ ですが、足利将軍家からの屈辱に耐えて恩恵を受けなかったことが、のちの大徳寺の発展に大きく功を奏します。 将軍家に遠慮して天龍寺や相国寺に近づけなかった諸大名や堺の商人たちから、愛顧を招くことになったからです。 茶人・千利休に愛された禅寺 戦国時代から桃山時代に一躍したこの寺は、堺に大きな影響力を持つ茶人・千利休によってさらなる栄華を誇る禅寺に発展します。 豊臣秀吉の命を受けた千利休が、織田信長の壮大な葬儀をここ大徳寺で催し

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    dorifamu 2019/09/23
  • 妙喜庵待庵  利休の最高傑作 草庵茶室 - 京都案内  こうへいブログ  

    利休が造った茶室 主君・織田信長の仇うちのために明智光秀を滅ぼした豊臣秀吉は、乱世を制して天下布武を実現しました。 その復讐の舞台となった天王山を抱く山崎の地、そこにたたずんでいるのが古刹・妙喜庵(みょうきあん)です。 そう、この山崎の合戦後、あと処理のために秀吉は1年ほど山崎に滞在したのですが、妙喜庵はそのときの接待所として用いられたんですね。 茶道の完成者・天下の茶人といわれるあの千利休に、秀吉は妙喜庵の茶室・待庵(たいあん)の造営を命じました。 利休が造った現存する唯一の茶室として国宝に指定されている待庵は二畳の広さの極小茶室です。 物欲を極限まで排除した空間 待庵は、むだな装飾がいっさいない「侘び」を具現化した草庵茶室の代表作といわれています。 それは、利休が秀吉を茶道指南する席であり、ふたりの一期一会の茶の湯のための厳しい対決の空間でした。 室床(むろとこ)とよばれる床の間は、通

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    dorifamu 2019/09/05
  • 貴船神社  和泉式部も訪れた ホタルが飛ぶ川のほとり - 京都案内  こうへいブログ  

    神が乗ってきた貴船 貴船川の右岸に建つ貴船神社は、1300年前の建て替えの記録が残っているという古い歴史を持ちます。 そして貴船の神は、賀茂川をさかのぼってこの場所にきたという伝承があるんですね。 今は貴船と書きますが、神が乗ってきた「黄色い船」、あるいは「木の船」の名を取ったもので、貴船神社の奥宮にある船形石の中にその船は閉じ込められていると伝わります。 貴船に船でやって来た神は、下上賀茂神社の創建とも深い関係のある玉依姫(タマヨリヒメ)です。 玉依姫がここを訪れたときに、山の神を祀るほこらを建てたことが貴船神社のおこりとなります。 御祭神は、この玉依姫と高龗神(タカオカミノカミ)、闇龗神(クラオカノカミ)、罔象女神(ミツハノメノカミ)。 主神は、やはり農耕に最も必要な水を司る神として尊崇された高龗神ではないでしょうか。 女流歌人 和泉式部の悲しみ 貴船神社の奥宮までの参道の途中に、夫婦

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    dorifamu
    dorifamu 2019/08/31
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