埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』を読んだ、といっていいのかどうかわからなかったのだった。ようするに前半に収録されている「アフォリズム集」など、率直にいえば「日本語でおk」の気になってしまうわけなのだった。 それでも雨の土曜日、布団の上で読んでは寝て読んでは寝てを繰り返しつつしていると、不思議となつかしい気持ちになってくるのだった。雨音の外は片瀬の丘の上の家の二階であって、窓の外に腰越の浜につづく家々を見下ろす景色があるように思えてくるのだった。 十五年、下手すれば二十年前の俺も、ときどきこんなふうに、父の本棚から取り出したなにかよくわからない本の字面を追っていたのだった。ただし、俺は字面を追うのが精一杯で、だいたい知らない単語、固有名詞にあふれていて、それを読書と呼べるのかどうかも怪しいのだった。それでも、なにかそれが自分を遠いところに連れていってくれているような、そんな気にはさせてくれてい